2024.6.2 ルカの福音書5章17-26節
この教会がこの地で宣教をはじめて、今日で18周年を迎えられたことを感謝します。これからも神の導きを仰ぎつつ前進していきたいと思います。
(1)常識外れの行動
今日の聖書箇所は、重い病(中風)の人が、数人の人によってイエスさまがおられる家に運び込んで、治してもらおう、という所から始まります。同じ出来事がマルコの福音書にもあって、運んできたのは4人と記されています。この4人は友人と見るのが自然でしょう。 まず、この4人の友人たちの行動に注目したいと思います。4人で運んできたということは、自分で自由に動くことができない。長い間、治りたいと思っていたが、という状態だったのでしょう。 この人を見て、4人の友人は何とかして彼を治してあげたいと思っていた、ただ単に、可哀そうだなあ、と同情していただけでなない。「主の御力をもって、病気を直しておられた」イエスさまのことを聞いて、このお方の所に連れて行って治して頂こう、という切なる願いが、行動に移させたのです。これが愛です! 同情や善意、それだけでは何も起こらない。それが具体的な行動に移されるとき、はじめて愛となるのです! そして、その愛はどんな障害をも乗り越えさせる力となるのです。「しかし、大ぜいの人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。」(19節)・・・こんなことしちゃっていいんですか? ひとの家ですよ、断りもしないで、屋根の瓦をはがし始めました。どうなります? 家の中にいる人たちの上には、天井の土やゴミ、また石などもパラパラ落ちて来たでしょう。誰がどう考えても、非常識な行動です。でも4人の友人はそれをしたのです。
ここで、信仰とは非常識なものだ、と考えないで頂きたい。だからと言って、常識的な行動がいつも良いとは言えないのです。例えば、緊急を要するとき、命にかかわるようなときは、非常識に見えることも、敢えてしなければならないことがあります。4人の友人は非常識なことをあえて行いました。そして、聖書には書いてありませんが、家の中にいた人たちは、この常識外れの行動に対して非難したことでしょう。 「何してるんだ!」「土砂がバラバラ落ちてくるだろう!やめろ!」 当然イエスさまの頭にも土砂が降り注いでいたことでしょう。しかし、イエスさまはそのことについては、何一つ文句を言わず、彼らの信仰をご覧になっていました。そして、病人に対して「あなたの罪は赦されました」と言われたのです。 友人たちは、病人を治してもらうために連れて来たのです。この言葉を聞いた時、意味が分からず、戸惑ったことでしょう。
しかし、この病人だけでなく、すべての人は神さまから「あなたの罪は赦されました」と言って頂く必要があるのです。このイエスさまの「罪の赦しの宣言」は、人間にとって最も必要なことなのです。
(2)律法学者やパリサイ人
同じ場所にいた律法学者、パリサイ人たちは、律法の専門家でした。「神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と言っていることに間違いはありません。しかし、彼らの問題は、イエスさまを神と信じていなかったことにありました! さらに、問題なのは、律法の内容はよーく知ってはいましたが、律法を与えてくださった神さまの心がわかっていなかったのです! 彼らは、自分たちは律法を守り、神に従って歩んでいる、と自負していました。ですから、一般のユダヤ人が、少しでも律法に反するような言動をすると、厳しい姿勢で批判し、裁くのです。そして、そうすることを誇りに思っていました。そこには、愛に基づく思いやりも憐みも全く見られないのです。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(第1コリント8章1節)とあるのは彼らに対する言葉と言ってもよいでしょう。
聖書知識が豊富であるということが重要なのではなく、聖書の言葉をどれだけ自分のものとしているかが大切なのです。ですから、4人の友人たちは、聖書知識においては、律法学者に劣っていたでしょうが、信仰の生活化、信仰に生きるということでは、はるかに勝っていたと言えるでしょう。
(3)驚くべきことを見た
そんな律法学者たちに対してイエスさまは、22-23節で「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」と言われました。・・・みなさんはどう思われますか? 常識的に言ったら「あなたの罪は赦された」と言っても、見た目は何も変わらず、その通りになったのかどうか判断できません。しかし、歩けない人に向って「起きて歩け」と言ったら、その言葉通りになるか否かははっきりわかる訳です!ですから、「罪は赦された」と言う方がやさしい、と思う訳です。しかし、罪を赦すことができるのは神お一人だけ! こちらの方がはるかに難しい、いや、人には言えない言葉なのです。でも人々は目に見える奇跡を行う方が難しいと考えているので、イエスさまはそのいやしの奇跡を行って、ご自分が神であり、罪の赦しの宣言ができる者なのだということを、人々にお示しになったのです。そして、その奇跡を目の当たりにした人々は「ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た』と言った」のです。(ルカ5:26) 教会はこういう人たちー中風の人やその4人の友人たち、そして、その驚くべき神の奇跡を見て、神をあがめ、畏れに満たされた人たちーによって建て上げられていくのです。
ジョイチャペル19年目のスタートです。「驚くべきことを見た」と言えるべき主の御業を見させて頂きつつ、神を愛し、犠牲を払って主に仕え、周りの方々に愛をもってまず仕え、そして、いのちのみことばをお伝えしていきましょう!