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私の隣人とはだれですか

更新日:21 時間前

2025,6,15 ルカの福音書10章30-37節

                

今日の聖書箇所で、イエスさまが話された内容は、よく知られている「良きサマリヤ人」と言われているものです。なぜこの話をしたかという、25-29節にありますが、ある律法の専門家が、イエスさまのところに来て、質問したことからなのです。彼との問答の最後に、イエスさまがこの「良きサマリヤ人」の話をされたのです。

 この話をして、イエスさまは何を伝えたかったのでしょうか? これは、単に「良い行ないをしなさい」という話ではありません。そうではなく、福音そのものなのです。

 では、聖書をたどりながらみていきましょう。30節

 

  イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

 

私たちも、人生という道を歩いていく中で、思わぬことに遭遇します。ひどい目にあったり、あるいは突然の病に襲われたり、事故、災害に巻き込まれたり、経済的な困難、その他、思わぬことが突然やってくることがあるでしょう。 誰もが、大なり小なり経験することではないでしょうか。

 襲われ、倒れたままでいる、その人のそばを通りかかった人がいました。31-32節

 

 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

 

 ここに出てきた2種類の人、祭司とレビ人。彼らはユダヤ人の中でも、直接神に仕える働きをしている人たちでした。今で言ったら、牧師や教会献身者と言えるでしょう。二人とも、エルサレムの神殿での勤めを終えて、家に帰るところだったのでしょう。早く家に帰り、家族と団らんの時を過ごしたい。そんな思いで家路を急いでいたのでしょう。 そんな時、道の傍らで、傷ついて、倒れている哀れな人を見たのです。 そこには自分以外誰もいない、祭司、レビ人の心には、一瞬戸惑いが起こったことでしょう。自分は、神に仕える者だ、目の前にいるこのような哀れな人を放っていくことはできない。自分の良心に対しても、そのまま見捨てていくことはできないことでした。 しかし、彼らの心の中には、早く家に帰りたいとの思いがありました。その心は家に、また、家族に向かっていました。もし ここで旅人に関わり合っていたら、思わぬ時間をとられてしまう。また、もしかしたら、今度は自分が強盗に襲われてしまうかもしれない。 そんなことが、一瞬のうちに心を駆け巡ったのでしょう。

 人は、自分の利益にならなければ、人と関わり合うことを避ける傾向にあります。もし、関わり合いをもって、自分が思わぬ災難にあったら困る、という考えを持ちます。 すると、どんな行動をとるかというと・・・、見て見ぬふりをして、反対側を通り過ぎるのです。     

 ここで注目すべき言葉は「反対側を通り過ぎて行った」です。彼らは、その場に来て、こう考えました。「ここには誰もいない、自分は忙しい。今、勤めを終えての帰りだ。家では家族が待っている。早く帰って、家族を安心させ、喜ばせることが一家の主人としての務めじゃないか。だから、今ここで、かわいそうだけれど、関りを持つことはできない。ほかの、通りかかった人が助けてくれるだろう」  そんな言い訳を、自分自身に対して語ったことでしょう。

 これは人間、誰もが考えてしまい、そういう行動をとりがちになるのではないでしょうか。

 私たちは自己弁護、自己正当化をしてしまいやすい者なのです。

「反対側を通り過ぎて行った」 この「反対側」が深い意味を持っているのです。強盗に襲われ、傷つけられ、倒れている人から見れば、反対側です。しかし、祭司・レビ人から見れば、「こちら側」です。「こちら側」には、自分がいる、自分の家族がいる、自分の仕事がある、こちら側には、自分の何かがあるのです! そのこちら側から、反対側に行くには、時間や労力という犠牲が伴う。だから、関わりを持たないように、こちら側を守って、そのまま通り過ぎて行くことが良いことだ、と考えてしまうのです。

 これは、人間の情です。人間の情は、自分が利するときは、反対側に渡っていきます。しかし、自分が損をするようだと、決して反対側にはいきません。 自分を守ること、そこからどうしても抜けられない‼ 自分を守ることを第一とする、ここに人間の生れながらの姿があるのです。それが聖書の示す罪の姿!

 今度はそこに、全く別の人物が通りかかりました。33-34節

 

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

 

 それは、サマリヤ人でした。 ご存じだと思いますが、ユダヤ人とサマリヤ人はお互いに口もききたくない、反発し合っている、憎み合っている関係、それこそ関わり合いたくない者同士の関係だったのです。ですから、ここに通りかかった、このサマリヤ人はまさに、外側の存在です。けれども、このサマリヤ人は、その外側から、こちら側へ、傷つき倒れている哀れな旅人のところまで、近づいてきたのです。 なぜでしょう? それは「かわいそうに思い」と示された言葉にあるのです。

 この言葉は、イエスさまが、弱っている者や、盲人を見て癒されたときや、たとえ話の中で、1万タラントの借金を許してやる王や、放蕩息子が帰ってきたときに喜んで迎える父親の思いとして使われている言葉です。彼らはみんな、相手の姿を見て「かわいそうに思った」のです。 この言葉の、もともとの意味は、はらわたが千切れるような痛みを覚えるほど、かわいそうに思う、という意味なのです。

 それほどまでの思いが、ユダヤ人もサマリヤ人も関係なく、外側にいた者が、こちら側に近寄ってきて、応急処置をし、家畜に載せ、近くの宿屋まで、連れて行き、まさに、至れり尽くせりの介抱をさせたのです。 さらに35節

 

  次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

 

なぜ、そこまでできるのでしょう? そんなことしてもサマリヤ人にとっては何のメリットもないのです!         

・・・この話を終えて、イエスさまは、律法の専門家に最後の質問をし、結論を宣言するのです。36-37節

 

 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

「あなたも行って同じようにしなさい。」・・・・私たちにも語り掛けられていることばです。果たして、本当に、そこまでできるだろうか? と思わざるを得ません。

みなさん、今日の良きサマリヤ人の話は、最初にお語りしたように、福音そのものなのです!   

 このサマリヤ人は、イエスさまなのです。 自分で自分をどうすることもできないで、倒れている者(私)を、世の中のどんな立派な人でも、救い、助けることはできないのです。 そんな、私たちの所に、私たちが馬鹿にし、無視していた、真の神様が、神さまの方から近寄って来てくださり、すべてのすべてを用意して、癒し、助け、救ってくださり、平安な道、平安な場所に運んでくださったのです。 この福音が、深く心に刻まれている人は、「私の隣人は誰ですか」ではなく、

私は誰の隣人になりましょうか」という問いが出てくるのです。    

 1960年代後半~70年代前半にかけて、米西海岸を中心に起こったイエス革命と呼ばれる、神の大きな働きがありました。ロサンゼルスのコスタメサのカルバリーチャペルは、保守的な教会で、牧師も教会員もスーツを着て礼拝を守っていました。ところが、長髪で、お風呂も入っていなくて、裸足で生活しているヒッピーと呼ばれた若者たちが、続々と教会の中に入ってきたのです。

最初はみんな戸惑っていましたが、チャック・スミス牧師の夫人は、彼らのために、祈り始めました。チャックは、「ヒッピーに必要なのは祈りではなく、シャワーだ」というぐらいに思っていましたが、彼女が祈るのでいっしょに祈り始め、やがて教会員も祈り始め、ヒッピーを愛し、仕えるようになっていったのです。 やがて、毎週のように、海岸で何百人ものヒッピーの若者が洗礼を受けて、教会の働き人になっていったのです。 カルバリーチャペル、そこのクリスチャンはヒッピーの隣人となって、彼らを愛し、受け入れ、共に歩んでいったときに、神の大きな御業を見させていただく恵みにあずかったのです。

 あなたは誰の隣人になることを、主は望んでおられるのでしょうか。祈っていきましょう。  

 
 

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