霊に燃え、主に仕えよ
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 1月5日
- 読了時間: 6分
2025.1.5 ローマ人への手紙12章9-15節
新年、明けましておめでとうございます。
今年もジョイチャペルのホームページにおいでくださりありがとうございます。
そして、「今週の講壇」をお開き下さり感謝いたします。今年も、このコーナーを読んでくださる方が、神様からの豊かな恵みと祝福が注がれますように、祈りながら、掲載させて頂きたいと思います。
(1)霊的な礼拝
昨年暮れに、お茶の水のクリスチャンセンターに買い物に行った時、建物に入ってすぐ左の壁に、日本を代表する大衆伝道者の本田弘慈先生による「霊に燃え、主に仕えよ」と書かれた大きな額が飾られていました。昨年後半からずっと「喜びをもって主に仕えよ」という聖書の言葉が示され続け、よく口にしたり、メッセージでも語ってきていました。 12月になってから、新年の教会の指針となる言葉はこれだな、と思っていました。
しかし、昨年の暮れにこの言葉に出会って、そうだ、喜んで主に仕えることは、クリスチャンの本分かも知れない。じゃあ、喜べないようなら仕えないでいいのか? ある面、いやいや仕えるなら、しない方がいいと言えるかもしれない。けれども、ローマ人への手紙12章1節には
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
とあります。この「霊的な礼拝」の原文は、「当然の礼拝」「理屈にかなった礼拝」とも訳せることばなのです。ですから、「あなたがたのからだを、ささげなさい」それが「当然の礼拝」「理屈にかなった礼拝」なんだ、とも受け取れる内容なのです。
「からだ」とは、その人の全存在のことを表しています。肉体的、精神的、すべてを含めた自分自身を神さまに捧げる、それが礼拝なんだ、と聖書は語るのです。
また、旧約時代の礼拝を考えてみると、それは、常に動物が捧げられました。「礼拝=捧げること」だったのです。もっと言うと、動物を自分たちの罪の身代わりの犠牲として捧げていた! それが旧約時代の礼拝だったのです。
しかし、感謝なことに、新約の時代になったので、もう犠牲をささげる必要はなくなりました! イエスさまが私たちの罪の身代わりとして、犠牲となって死んでくださったので、もう動物をささげることによって、罪を赦して頂く必要はなくなったのです! すべて神の子イエスさまが、ご自分の死をもって、繰り返し動物をささげることを終わらせてくださったのです。
私たちは、このイエスさまの贖いの御業を信じるだけで、罪赦され、義と認められ、神の子とされ、永遠の命を頂くことができました。
この事が、本当にわかったら、私たちは、1節にあるような、霊的な礼拝「当然の礼拝」「理屈にかなった礼拝」を喜んでささげる者となることができるのです。 すなわち、「自分自身を神に捧げる」礼拝者となるのです。
「自分自身を神に捧げる」を、もう少し具体的に表現すると、「神に仕えて、日常生活を送る。神に仕えるように、周りの人に仕える」ということであろうと思います。
(2)霊に燃え、主に仕えよ
そのクリスチャンの実際生活を示した内容が、このローマ人への手紙12章以降なのです。
今日は、ローマ12:9から見ていきます。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
聖書が最も大切なこととして示している、中心的なものは愛、神の愛です。
しかし、人の愛には、偽りの愛があり、人は愛することができないことがあるのです。
私は昨年、自分が神の愛を毎週、講壇から語っているにもかかわらず、なんと愛のない者なのかを実感させられました。 ある方への誤解をずーと引きずって、牧師らしい寄り添った接し方もせず、無意識的ではあっても、結果として祈って支えることをしていなかったのです。誤解であったことがわかった時、その方に対して、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、牧師として失格だな、と思わされました。
そして、先週の礼拝の最後に開いたみことばが、いつものように、響いてきました。第一ヨハネの3:18
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
私が生涯、語られ続けるみことばだと思います。
みなさん、愛には犠牲が伴うのです、犠牲の伴わない愛はありません。
愛とは、愛する対象のために、自分が持っている大切なものを与えることです。最も大切なものとは何ですか? 地位ですか? 家族ですか? 集めて来たコレクションですか? 人によって違いはあるかもしれませんが、多くの人にとって、自分の命というものは、最も大切なものなのではないでしょうか。そして、命とは、時間の連続ですから、愛するとは、具体的には、自分の持っている時間を、その対象のために使うことだと言ってもいいのではないでしょうか。愛する人のためには、その人が喜んでくれるために、何をしたら良いのか、時間をかけて考えるでしょう。多くの時間をそのために使っても、惜しいとは思わないのです。何故でしょう? それは、その愛する人が、自分に喜びを、幸いを与えてくれるからなのです。愛すれば、何かしらを返してくれるのです。見返りがあるのです。・・・これが、私たち人間の愛なのです。
しかし、神の愛は、見返りを求めない、全く一方的な愛なのです!
神さまは愛なるお方ゆえに、私たちが滅びるのを見過ごすことをできないで、ひとり子のイエスさまを私たちの罪の身代わりとして、十字架で罰し、それによって、私たちを永遠の滅びから救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださったのです。
これは、ただ神の愛ゆえのわざであり、まさに神の恵みなのです。だから、10節へとつながるのです。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
「互いに愛し合い」とあります。言葉を変えれば「お互いを大切にする」ということだと思います。
5節にこんな言葉があります。
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
この手紙を書いた、パウロという人は、この重要な真理を繰り返し語っています。
クリスチャンは互いにキリストのからだの一部分、各器官なのだ。ゆえにいたわり合ってこそ、からだが、教会が、健康で、健全に歩んでゆくことができるのだ、と語るのです。
ですから、教会に加わっている人で、誰一人、必要のない人はいないのです。「自分なんか」と、そう考えていたら、それは、神さまに対してとっても失礼な事なのです。
教会はキリストのからだ、私たちはその各部分、器官なのです! これこそが、神の愛によって救われ、新しくされた者の生き方なのです。
さらに信仰者としての姿が11節にあります。
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
ここから、今日の説教題、「霊に燃え、主に仕えよ」をとりました。
「霊に燃え」とありますが、内なる霊が熱心さに燃え、そして、それはただ、人間的な熱心によって燃え上がらせるのではなく、霊によって、神の霊、聖霊によって、熱く燃やされて、主に仕えていくのだ、と語っているのです。
今日は、「霊に燃え、主に仕えよ」と語っていますが、今年の教会の指針の言葉は、詩篇100篇2節
喜びをもって主に仕えよ
としたいと思います。
今年も、主を見上げ、感謝と、喜びをもって主に仕えていきましょう!