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神との平和宣言

2025.10.19 ローマ人への手紙5章1~5節

 

 ローマ人への手紙は「信仰義認」が中心的なテーマです。 

 「信仰によって義と認められる。律法の行いによるのではない。」というプロテスタント教会の根幹となる考え方です。 救いは、神の一方的な恵み、愛の業、何かしたから、救いに与かった、ということでは決してない!とパウロは繰り返し語るのです。

 「異邦人もユダヤ人も、すべての者はイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる。何の差別もない」(3:22)と主張するのです。

 

 ローマ人への手紙の1~4章は「信仰による義」について、5~8章は「信仰によって生きる」ということを語っています。今日見ていく5章からは「この信仰によって義と認められた私たち」に与えられる幸い、祝福とはどんなものなのかが、書かれています。この5章には、沢山の祝福があるので、今日一回では全部見ることはできないので、1-5節までを見ていきたいと思います。1節

 

 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 

「信仰によって義と認められた私たち」とあります。「義とされた(救われた)」というのは、ただ一度の体験的出来事です! 義とされる・救われる条件は、「神がイエス・キリストを十字架につけて罰したのは、私の罪を赦すためだと信じ、このキリストを心に迎えること」。これだけ!

 しかし、信仰を持った時に、不確かな信じ方もあり得るし、救いについての理解も不十分で、罪の具体的な悔い改めもほとんどなく、祈り方も知らず、すべてにおいて未完成で、未熟だったという場合もあるでしょう。 しかし、子どものように単純に信じたのであれば、からし種一粒ほどの信仰でも十分だと聖書は語るのです。 

 信仰において、ここまで出来たら合格!というような基準はありません。信じ受け入れたら、それだけでいいのです。この信仰さえ持っていれば、救われているのです!

 「義とされた」「救われた」という一度だけの特別な出来事は、それだけで十分! その後の、面接試験も、2次試験もないのです。恐れや不安を抱くこともなくなるのです。

 そして、救われた者の心のうちには聖霊なる神様が住んでくださり、この聖霊によって、聖い歩みへと、聖化の信仰生活へと進ませてくださるのです。 クリスチャンとしての成長を促して、そのようになると励まし、助け、導いてくださるのです。それはどこまでも、救われた者として、救ってくださった恵み深いお方への、感謝や感動が積み重なって成長していく歩みへとなっていくのです。

 1節に戻りましょう。 その私たちは「神との平和を持っています」それは「主イエス・キリストによって」なのです!

 信仰によって義と認められた私たちに、与えられる第一のものは「神との平和」です。救われた者、全員にもれなく与えられる恵みは、「神との平和宣言」です。

 「平和」はパウロがよく使う「恵みと平安」の平安と同じ言葉です。

平和には2つの意味があります。 

1、「関係的な意味での平和」「神との平和な関係」です。

 救われる以前の古い関係は、被造物である人間が、造り主なる神様に背を向けて、反逆し、無視し、自分勝手な歩みをしていました。いわば、敵対関係にありました。 しかし、信仰によって義とされた者(救われた者)は神との敵対関係が終わり、友好関係、平和な関係に入れられたのです。

 日本が関係した19世紀以降の戦争を見ても、戦争状態を正式に終わらせるためには、当事国同士で「平和条約」を結ぶことが近代的な国際関係であり、世界の国々もそのことを理解して、国際社会を築いていくわけです。 私たちは神さまと、そういった平和な関係に入れられたのです。

2,もう一つの意味、それは実質的・体験的な意味を持つ「心の平安・魂の平安」です。

 つい最近、イスラエルとハマスとの間で、停戦の合意が成立しました。停戦が実施に移されたときのガザ地区の映像がニュースで流れましたが、子どもも大人もみんな喜んで、走り回ったり、両手を突き上げたり、抱き合ったりして、喜びを爆発させていました。 戦いがやんで、心に平安が訪れた証拠でしょう。もう逃げ回らなくてもいい、攻撃におびえる必要もなくなった。安心して暮らせる。まさに彼らは心の平安を得たのです。

 しかし、聖書が語る「平安」はそれだけではないのです! 何ものによっても、揺るがされない神の平安なのです。 この神との平和の関係は、信仰によって救われた者の心の中に

「キリストの平安」を与えてくださるのです! ヨハネ14:27にこうあります。

 

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 

パウロは信仰義認の結果として、私たちが、今現在持っている、「神との平和・平安」をハッキリと宣言するのです。 関係は平和、心には平安、根拠は十字架のあがないの御業と復活のいのちであると。

 この救いの事実は、パウロ自身の体験・証しであるばかりでなく、同時に地上のすべての人への救いの、祝福宣言でもあるのではないでしょうか。

 どうですかみなさん、信仰をもって今日までの日々を振り返ったら、もう感謝しかないですね。 紆余曲折、山や谷、嵐や洪水、様々な出来事はあったでしょうけれども、今ここに、こうして、一緒に礼拝をささげていられるということは、感謝しかないでしょう!

 

 2~4節をみていきましょう。

 

  またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

  そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

  忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

  

忍耐を生み出す患難を喜び、そうして生まれた忍耐は練られた品性を生み出す、とあります。「練られた品性」とはどういったものなのでしょうか? 考えてみたことは「人格的に優れている」「高潔な人柄」「毅然とした態度の中にも公平で優しいが強さもある」などでしょうか。 大川従道先生は「鍛えられたしなやかさ」と表現しました。物事に屈しない、粘り強い、包容力のある、といった意味合いでしょうか。 それが希望を生み出す、というのです。

 そして、5節でこう結ぶのです。

 

 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

失望に終わることはない」とは、「恥をかかせない」「当て外れにならない」という意味があります。 「この希望」とはどんな希望なのでしょうか? 第一1コリント15:19~20 

 

 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 

さらに、第一1コリント15:52に

 

死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

とあり、「よみがえりの希望」があるのです! 単なる夢・幻ではないのです。 

 砂漠の隊商はしばしば、蜃気楼を見ます。緑やヤシの木が密生するオアシスがある!と喜び勇んで近づくと、それは消えてしまう。当て外れの、喜び合ったのに恥じ入ってしまう。 そんなものではない!

「希望は失望に終わることがありません」その保証と根拠は「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」

 

 私たち人間の変わってしまいやすい愛ではなく、「神の愛」が注がれているのです!

 この神の愛が私たちの心を満たし、平安と喜びと希望にあふれさせてくださるのです。

もうすでにそうなっているのです。 

 この恵みを感謝して受け止めて、頂いている「平安」「喜び」「希望」を私たちの周りの方々に、特に身近な方々に注いでいく歩みをさせて頂きましょう。

 
 

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