神を認めて生きる
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 3 日前
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更新日:1 日前
2025,10,26 ルカの福音書12章8-12節
今日もルカの福音書12章の短い箇所から、神の御言葉の深みに漕ぎ出したいと思います。
まず8-9節を見ましょう。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
イエスさまがここで「わたしを人の前で認める者」と言われたことは重要なことです。信仰というものは、心の中で信じるところから始まります。しかし、それだけではなく、ローマ人への手紙10:10にはこうあります。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
心に信じたことを、口で告白することによって、救いが確かなものになる、と聖書は語るのです。 信仰は心の問題だから、口で言わなくても、心の中で信じていればいいのではないか、と考える人もいると思います。
しかし、聖書は「わたし(イエス)を人の前で認める者」とか「口で告白して救われる」と明確に語るのです! イエス・キリストの十字架は私の罪のため、との信仰の告白をしっかりして、その信仰を隠してはいけませんよ、と言っているのです。
「わたしを人の前で認める者」とある「認める」とは、まさに、「イエスさまは私の救い主です」と認めることなのです。
反対に9節では、「わたしを人の前で知らないと言う者」とあります。ここでの「知らない」とは、ただ単にイエスさまのことは知らない、というだけではなく、「否認する、否む、拒む、拒絶する」という意味があります。 イエスさまが救いの恵みを与えようとしているのに、それを拒む、自分にはそんなものは必要ないと拒絶する、ということなのです。
もう一つここでの「知らない」という意味は、クリスチャンであるのに、イエスさまを知らないと言うことです。なぜでしょう? ひと言でいうと「人の目、人の口を恐れる」からなのです。
私には苦い経験があります。高校時代、自分が信仰を持っていることを、友人に知られるのが、恥ずかしい、と思っていたことです。仲間から浮いた存在になってしまわないか? それまでの関係が変わってしまわないか? まさに、人の目、人の口を恐れて、信仰を隠していたのです。
聖書を見ると、ペテロはイエスさまの弟子であるにもかかわらず、イエスさまを知らない、と言ってしまいましたね。 彼はイエスさまから「あなたは鶏がなく前に、3度私を知らないと言います」と言われたとき、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と力を込めて言い張ったのです。しかし、イエスさまが言われたとおり、ペテロは3度もイエスさまを知らないと言ってしまうのです。 彼は自分もイエスさまの仲間として逮捕されるのがこわかったのです。
ペテロも、かつての私もイエスさまを知らないと言い、人々の前でイエスさまを認めませんでした。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
イエスさまを知らないと言う者は、イエスさまに知らないと言われてしまうのです。 天の法廷で、弁護してもらえない、ということ! これほど恐ろしいことはありません!!
けれども、3度も知らないと言ってしまうペテロであることをご存じで、弱く、つまずきやすく、誘惑に陥りやすい私たちのことをよくご存じのイエスさまは、ルカ22:32で
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
と言ってくださるのです!
そして、ペテロのためにも、もちろん私たちのためにも、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と、とりなしの祈りをしてくださったのです。なんとありがたいことでしょう!
10節
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし聖霊をけがす者は赦されません。
イエスさまをののしっても、悪口を言っても、あざけりの言葉を投げつけても、それこそ罪を犯してしまっても、赦されます、とあります。
その実例がパウロでしょう。彼は自らこう告白しています。第一テモテ1:13
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。
ですから彼はこのすぐあとの15節で、「私は罪人のかしらです」と語るのです。罪人の親分です、最も罪深い者です、と告白するのです。 もちろん、パウロだけではなく、私たちすべての者が、かつては神様に背を向け、神などいないという生活をし、自分の考え、自分の判断、自分の計画、すべてが自分中心に生きてきて、神様を無視して歩んできた者です。
しかし、そんな私たちにも、赦して頂ける道が開けたのです。 イエスさまを私の救い主と信じて、神様にごめんなさいと、心から悔い改めたら、赦して頂けると、神様は約束してくださっているのです。 第一ヨハネ1:9にこうあります。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
この御言葉通りにしたら、だれでも罪が赦され、聖められ、神の子とされ、永遠のいのちが与えられるのです!
・・・しかし、 10節の後半
しかし聖霊をけがす者は赦されません。
どういうことでしょう?
すべての人がイエスさまの十字架によって救われるのではないのでしょうか?
・・・一見、矛盾したように感じますが、聖霊の働きについて理解すると、おわかりいただけると思います。 聖書の中には、いろいろな聖霊の働きが示されていますが、今日の箇所と最も深い関係があるのは、第一コリント12:3です。
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
いくら聖書の話を聞いても、学んでも、求めても、それだけで信じることはできません。 もちろん信じる助けにはなるでしょうが。よくわからなくても、理解が浅くても、そこに聖霊が働くとき、不思議と信じることができるのです。
私たちは、信仰を持った時、自分で「信じます」と決断したと思っているかもしれませんが、その決断をさせてくださったのは、聖霊なる神様なのです。 それが、この聖書の言葉にはっきりと示されているのです。 けれどももう一度、10節の後半を見ると
しかし聖霊をけがす者は赦されません。
とあります。 「この聖霊をけがす」とは「聖霊の働きを拒否する」と言ってもいいと思います。 現代訳では、この部分を
聖霊に対して故意に反抗するなら、悔い改めができなくなって、永久に赦しを得られなくなってしまいます。
とあります。 簡潔に言ったら、福音を拒否する、聖書が語る救いはいらない、と言っていることなのです。 なので、聖書はこう語るわけです。
確かに、私たちの周りには聖霊の働きを拒んで、信仰を持たない人たちがいます。 だからこそ、私たちは祈って、示されたことを忠実に行って、このいのちの福音を、証し、伝えていくことが必要なのです。
最後に11-12を見ましょう。
また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。
主に従い、主に頼っていく人には、聖霊が守ってくださるだけでなく、助けを与えてくださるということです。 信仰をきちんと言い表すことができるだろうかと、不安になることがあるかもしれません。しかし、そういう心配をしなくてもよい、というのが、この最後の約束の言葉なのです! イエスさまは「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださる」と約束してくださいました。ですから、「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには」及ばないのです。 聖霊なる神様は、いつもそばにいて守ってくださり、何を言うべきかを教えてくださるのです!
このお方は、私たちを罪から救うために十字架にかかって、命を投げ出すほどに、私たちに限りない愛を注いでくださったイエスさまを示してくださるお方なのです。
このお方を恥じたり、否んだりできるでしょうか。私たちは、聖霊が示してくださるイエスさまを心から誇りとし、救い主として、喜びと感謝をもって、人の前に告白し、証していきましょう。
主は決して私たちを見捨てず、最後の最後まで私たちを愛し、守ってくださるお方ですから。