重荷を負ってくださる主
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 9月21日
- 読了時間: 7分
更新日:9月22日
2025,9,21 ルカの福音書11章45-52節
今日の聖書箇所の直前のルカの福音書11:37~44では、イエスさまがひとりのパリサイ人に食事に招かれ、彼の家に行っていろいろと語られました。そこで、イエスさまはパリサイ人に対してかなり激しい批判の言葉を投げかけるわけです。「わざわいだ」と3度も続けて語り、「あなたがたパリサイ人は、形の上では信仰深そうに見えるが、その内側は、邪悪でいっぱいではないか。」「最も大切な、公義と神への愛はなおざりにしているではないか」と叱責するのです。
そして、今日読んだ45-52節までは、律法の専門家、律法学者に対する、さらに厳しい、強烈な言葉をもって批判するのです。 イエスさまのパリサイ人に対する批判の言葉を聞いていた律法学者は、それはそのまま、自分のことを言われているのだと受け取ったのです。
別にイエスさまは、そこにいた律法学者に向かって話したわけではないのです。けれども、この律法学者にとっては、あたかも自分のことを言われているように、自分の欠点を、自分の罪を激しく指摘されたように受け取ったのです。
ときどき、礼拝や集会が終わった後で、「今日のメッセージは私に向けて話されているような気がしました」「私のことを言っているんだ、と思いました」とおっしゃる方がおられます。メッセージを通して、多くの方が自分の罪、過ちを指摘され、悔い改めを迫られていると感じたことがあるのではないでしょうか。
人はみな、罪を犯しやすい弱さを持った罪人なのです。「義人はいない。ひとりもいない。」と聖書は指摘するのです。 だから、神の言葉に触れるとき、人ごとじゃない、自分に向けて語られているというように思わされるのは当然のことなのです。
私たちは今、こうして、当時の律法学者をイエスさまが攻撃されている言葉を聞いていていますが、そのうちに、これは自分に向けて語られているんだと思わされ、自分に語られている言葉として、受け取らざるを得ないように導かれていくのです。
聖書はすべての人が読むべき神の言葉です。二千年前も、今も同じです。私たちが、日本人であろうが西洋人であろうが、学者であろうが、そうでなかろうが、高齢者であろうが若者であろうが、神の言葉に触れていく時に、それは必ず、自分に向けて語られている言葉となっていくのです。
そうでなければ、二千年もの間、聖書が読み継がれて来ることはなかったでしょう。
私たちが真面目に、まともに聖書の言葉を聞いていく時、必ず、この時の律法学者のように、「それは私のことですか、私のことを言っているんじゃないですか」と、そういうふうに問わざるを得ないようにされていくのです。
みんな、叩けばほこりの出るような罪人なのです。どんなに立派そうな顔をしていても、どんなに上品ぶっていても、中身はみんな同じ罪人なんです。 だから人間の罪を、神の言葉をもって説かれるとき、必ず、自分の胸にこたえてきます。 そういう意味で、聖書が私への神の言葉となり、私に語られている言葉になっていくのです。
今日の律法の専門家、律法学者も、イエスさまが語られたことを聞いて、自分に語られたこととして受け止めました。けれども、彼はイエスさまの語られた言葉に対して、反論をするのです。
45節
すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
なぜ、彼がこのように言ったかというと、旧約聖書の律法を守るということは、具体的にはこうすることだと言って、律法そのものには書かれていない、細かい規則、細則を作ったのが、律法学者であったからなのです。パリサイ人というのは、その律法学者たちが作った細則を忠実に守ろうとした人たちでした。 ですから、彼らはパリサイ人たちが忠実に守っているものを否定されるということは、自分たちをも否定されたと受け取ったのです。
彼らは、この細かい規定を守れば律法を守ることになる、と教えていたのです。しかし、その多くは、彼ら律法学者の考え、意見であって、旧約聖書の正しい解釈からくるものではなかったのです。勝手に付け加えた人間の規則だったのです。しかし、これをすべて守るのは非常に難しかったのです。 しかし、律法学者はそれを守っていれば救われるという、まさに行ないによる救いを教えていたのです。
そんな彼らに対して、イエスさまはすぐに批判の言葉を浴びせます。それも、「おまえたちは、わざわいだ」と、民に対する影響力の大きな、宗教指導者だからこそ、強い𠮟責の言葉を投げつけるのです。46節
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。」
まずイエスさまが彼らに指摘したことは、律法の細かい規則を説き、人々をがんじがらめに縛り、負いきれない重荷を負わせておいて、その荷を軽くしてやったり、支えてやったりもしない、ということでした。それは、パリサイ人と同様に「正義(人々に対する愛)と神さまに対する愛」をなおざりにしていることに対する批判なのです。
これに対して、イエスさまはどうだったでしょう? マタイの福音書11:28で
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
とおっしゃっています。律法学者と正反対です! 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」 どんな重荷でもいい、すべてです。心の重荷、肉体的な重荷、生活上の重荷、経済上の重荷、病の重荷、あらゆる重荷です。 けれども、人間にとって最も癒しがたい重荷は、罪の重荷です。 体の病気なら医者に診てもらえます。生活上、経済上の問題なら、国や自治体、あるいは富んでいる人が何とかしてくれるかもしれません。しかし、罪の痛みの重荷は、誰もいやすことはできないのです!
気づいていない人が多いのですが、あらゆる人生の痛みの根にあるもの、それがあるために、あらゆる悩み、重荷が生じる、そのすべての原因となっているのは、罪なのです。
根本がずれているので、何をやっても、すべてが、ずれていくのです。ですから、そこに悩みが、重荷が現れてくるのです。
イエスさまは、その心の底にある、あらゆる重荷の根である罪、ゆがみ、それらすべての重荷を、「わたしのところに持って来なさい」と言われるのです。
律法学者は、ただ人間の力で、行いでこれを成し遂げようとさせ、指導するのです。だから、細かい所までこうしろ、ああしろ、こうしなければいけない、こうしてはいけない、ということになるのです。 しかし、元々ずれている者に、どうしてそれができるでしょうか。それはいよいよ負いきれない重荷となって苦しみとなって、人々を苦しめ、悲しませるだけなのです。
しかし、イエスさまは全く違うのです! 今、あなたが負っている、負いきれない重荷を、すべて、全部、私の所に持ってきなさい。私が代わりに背負って、あなたを休ませてあげるよ、とおっしゃってくださるのです。
イエスさまはそうしてくださるために私たちの所に来てくださった、救い主なのです。
最後に52節を読んで、終えたいと思います。
わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。
知識のカギとは何ですか? それはイエス・キリストご自身です。律法学者は、真の救い主イエスさまを人々に紹介しないどころか、律法の細かい規則を守れば救われるという、間違ったことを信じ、教えていました。まさに、本当の救いから、自らも人々をも遠ざけていたのです。
私たちも知らず知らずのうちに、何かをすることによって、自分の信仰は守られている、大丈夫だ、と思ってしまうことはないでしょうか?
反対に、自分は何の奉仕もできないから、ダメなクリチャンだ、と思っている方はいないでしょうか? あえて言いますが、それは律法学者と同じ考え方なのです。
イエスさまの十字架の恵みによって救われていることを心から感謝し、喜んで歩んでいくことが、神さまが最もが喜んでくださることなのです。
主にすべてをゆだねていく時に、最善の歩みへと導いてくださる神さまであることを信じて、お頼りして歩んでいきましょう!