神の家、神の家族
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 10月5日
- 読了時間: 6分
更新日:10月6日
2025,10,5 ヘブル人への手紙3章1~6節
私たちの信仰の姿勢はへブル人への手紙11章1節の「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」というものです。
しかしながら、私たちがこの地上で生きていく限り、必ず困難に遭遇し、壁にぶつかり、思うように行かない、あるいは理不尽な扱いをされる、そんなことがあります。怒り、悲しみ、憤り、苦しみ、そういう思いが私たちの心を支配するときもあります。でも、その連続だったら生きていく気力がなくなりますね。ですから人は、心安らぐ時間、心の休み場を求める。そうでなければ、疲れ果て倒れてしまうでしょう。人は心の平安を望むものです。イエスキリストは、ヨハネの福音書14:27でこう語っておられます。
「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」
人はだれしも、何かしらの恐れを持っています。病、別離、孤独、貧困、老い・・・最大の恐れは死ではないでしょうか。 キリストはその死さえも、恐れなくてもいい、とおっしゃるのです。それを確認する場が教会であり、心にまことの平安を得るところが教会なのです。 なぜですか、生ける、唯一人の、真の神の言葉が語られるからです。
今日開いたへブル人への手紙3:1には、
天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。
と呼びかけています。「天の召しにあずかっている」神から召された者、天国に行くように神から召された者ということです。 神に呼び出された者、召された者の集まりが教会!
園遊会も 天皇からの召し、招待がなければ出席できません。
教会はエクレシア、神に召し出された者の集まり、呼び出された者の集まりなのです。
へブル書は、イエスさまがすべてにまさるお方と語ります。預言者、み使いにもまさるお方と1-2章で語り、そして、この3章では、ユダヤ民族が最も偉大な指導者と仰ぎ、敬い、誇りとしている、大指導者モーセにまさるイエス・キリストと語るのです!
モーセについて少しだけ触れましょう。奴隷の地エジプトから導き出されたイスラエル民衆は、指導者モーセに勝手なこと、わがままを言い続けます。こんな民を、成年男子だけで60万人を40年間も荒野を導きました。どれほどのストレスがあったことでしょう。
しかし、神の立てた指導者として、彼は2節にあるように、
「モーセが神の家全体のために忠実であった」
とあります。神の家とはイスラエルの民のこと、モーセは、神と人に対して忠実に仕えたのです!
しかし、それに対して、イスラエルの民は実に不忠実でした。ことごとに反抗的で、不平、不満、つぶやきばかり。神にも、指導者モーセにも服従することを常に拒んできたのです。 しかし、彼は仕えて服従し続けたのです。
ところが、このヘブル書の著者は、思いがけない展開を私たちに見せるのです。3-4節
家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
モーセは神の家にしもべとして忠実に仕えました。 しかし、イエスキリストは神の家に仕える者ではなく、神の家を建てる者だというのです。そして、家よりも、家を建てる者の方が栄光は大きい、と語り、5-6節
モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
それだけではなく、イエスキリストは神の家を忠実に治めるのだ。神の家に忠実に従うしもべとしてではなく、治めるお方だ! と語るのです。
だから、神の家を建て、神の家を治められるイエスキリストは、モーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいお方だとして、今日の個所では、モーセより偉大なお方だという展開を私たちに語るのです。
この偉大なお方、イエスキリストによってイスラエル民族が神の家として選ばれたのです! そして、彼らを通して真の神を、人が造った神でなく、人を造った神を現していく、真の神を知らせ、祝福を与えていく、これが選びの目的だったのです!
ところが、イスラエル民族はその目的を取り違え、自分たちだけが神の祝福を受けるもの、私たちは特別に選ばれた者であって、他の民族はそうではないのだと、考えてしまいました。
そこで神さまは新しい選びの民、神の家と呼ばれる、神の家族と呼ばれる新しい民を呼び集めることにされた、というのです。 それが新約聖書を見ると、霊のイスラエル、霊的な意味のイスラエルといわれるクリスチャンの群れ、教会だというのです。
私たちは、罪の中で生れ、生れながらの悪魔の子、滅ぶべき子でした。神の怒りを受けるべき怒りの子でした。しかし、神さまは、こんな私たちを罪の中から、悪魔の手の中から、その支配下から解放し、なんと神の子どもとし、神の家族の一員としてくださって、全能の神に向かって「アバ、父よ」お父ちゃん!と呼ぶ者としてくださったのです。 ですから私たちにとって、神の家と言われる教会に加わるということ、教会の一員であるという事は、非常に大きな意味を持つことなのです。
私たちの選び、救いも私たちだけが受けるのでなく、周りに広げていくべきもの、とのことを忘れてはならないと思います。忘れてはならないことは、1節で勧められている
天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。
と私たちは呼ばれているということ!「天の召しにあずかっている者」すなわち、天国に行くように神から召された者なのです。これは私たちにとって、救いの確信の根拠です。天国に行けるかどうかはっきりしない者ではありません!!
今、心がどういう状態であろうが関係なく、神が召してくださっている、もう私たちは神のものなのです。 私たちがそれをどう感じているかということではなく、事実であり感情とは無関係なのです。 1節後半には
「大祭司であるイエスのことを考えなさい。」
「考えなさい」とあります。詳訳聖書では「心に深くー注意深くー思いなさい」とあります。
なすべきことは私たちの信仰の中心であるイエスを心に深く留めること!
また、大祭司であるキリスト、とありました。 大祭司とは橋を架ける者、との意味があります。神と私たちとの架け橋となってくださって、私たちが神の前に立てるようにしてくださったのです。
6節の最後に、こうあります。
「もし、私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかり持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」
私の罪の身代わりに死んで下さったイエス様を、私の救い主と信じるなら、必ず救われて、天国に行ける、これが救いの確信です。聖書の言葉をそのまま信じ、受け取ることが祝福なのです。
永遠の命が与えられる、この希望が誇りなのです。この希望を持っている者は「神の家」なのです。
この地上では教会が神の家、心安らぐ場、神がくださる平安を得る場です。弱い、罪を犯しやすい自分を見ないで、自分にとらわれているところから解放され、神を見つめ、キリストを深く心に留め、思い、救いの確信と永遠の希望を持っていくならば、主があらゆる問題を解決し、勝利と喜びの歩みへと導いてくださるのです。
私たちのために、計り知れない愛と犠牲を払ってくださった、イエス・キリストから目を離さないで、全幅の信頼を置いて、歩んでいきましょう。