パリサイ人は名優?
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 9月28日
- 読了時間: 7分
2025,9,28 ルカの福音書12章1-3節
いよいよ、今週土曜日、4日に自民党総裁が決まります。総理になる可能性が高いので、どなたが総裁になるのか、今まで語ってきたことを実行していくのか、注目していきたいと思います。
今日見ていく聖書箇所のように、偽善者となってほしくはないと思いますね。
ルカの福音書11:37からイエスさまがパリサイ人、律法学者を激しく批判する言葉が続きました。今日の聖書箇所は、その流れの中で、イエスさまは弟子たちに語られるのです。まずルカ12章の1節前半、
そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。
そうこうしている間にとは、11章53節にある出来事です。
イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
律法学者、パリサイ人たちのイエスに対するしつこい質問攻めがあり、そこでの激しい論争を見て、これはいったい何が始まったのか、と思って、群衆が集まってきたのです。1節後半
イエスはまず弟子たちに対して、話し出された。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」
イエスさまは集まってきた群衆にではなく弟子たちに「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われたのです。パン種とはイースト菌のことで、少しパン粉に混ぜたら、全体に影響を与えるものです。そして、そのパン種、すなわち偽善に気をつけなさいと警告しているのです。
人間は、往々にして、外側の姿とか、見た目を重要視しやすいのですね。
イエスさまのもとのに、日に日に多くの人が群がり集まって、イエスさまの言葉を聞くことを喜び、また、イエスさまの素晴らしい御業を見て、驚きの声を上げたりします。そういう中にあって、弟子たちの心の中には、自分たちがイエスさまの弟子であることが、本当に誇らしく、嬉しく、良かったと思っていたことでしょう。このイエスさまによって、もうすぐ神の国が実現するんだ、といった高揚感に浸っていたかもしれません。ですから、イエスさまは野次馬のように集まってきた群衆にではなく、まず、この得意になっている弟子たちに、語り始めたのです。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」。
パン種とは、先ほど言いましたように、パンを柔らかく膨らませるために、粉と一緒に混ぜるイースト菌のこと。そして、わずかなパン種が、大量の粉全体に影響して、作るパン全体を膨らませるわけです。
パリサイ人の偽善は、ちょうどこのパン種のようなものだと言うのです。偽善というものは、隠れているものです。あらわになっていたら、最初からはっきり嘘とわかるので、それは偽善とは言いません。 本当のように見えてうそ。外側はきれいに見えるけれども、中身は汚い。 偽善というのは、どこまでも隠れているもの、その正体を外に表さないもの! まさに、パン種のようなものなのです。 しかも、だから偽善は知らないうちに、これに触れていく者、これを見ていく者、その周囲に対して影響を強く及ぼしていくものなのです。いいと思って近づいているうちに、そのことによって、それこそ気がついてみたら、もう体全体が膨らんでしまっていた、今さら元には戻れない、というような恐ろしい影響を受けるのです。
「偽善」は原語で、もともと芝居における「演技」という意味があります。初めは悪い意味はなかったのです。「偽善者」と訳された言葉は、もとは「答える人」という意味でした。ギリシャの演劇は、問いと答からできていて、役者は「答える人」と言われていました。ところが、役者は仮面をかぶって、その役割を演じることから装う人という意味が強くなり、ついに偽善者を意味するようになったのです。
こうして新約時代になると、悪い意味しか持たなくなり、善い行いをしていないのに、しているように見せかける人を指して偽善者と呼んだり、また、神を敬うように見せかけながら、その実、神の戒めを破ったり、邪悪な心を隠し持っている人のことを、偽善者と呼んだのです。
イエスさまは弟子たちに、「パリサイ人の偽善に気をつけよ。外側はきれいに見えるが、内側は汚れと悪い思いでいっぱいだ。」と語るのです。パリサイ人の偽善は、自分は立派な人間だ、自分は良い人間だ、と見せよう、見られたいというものなのです。
残念ながら、生れながらの人間は、自分中心という罪を持っていて、自分をよく見せたいもの、自分の栄光を求めるものなのです。
人間は最初の人アダム・エバが罪を犯して以来、自分をよく見せよう、飾ろうという心が生まれました。 創世記3章に、2つの自分を隠す姿がはっきり表れています。 まず、見える体をいちじくの葉で隠す。そして、神の「アダムよ」との呼びかけに対して、それまでだったら、はい、と神の前に出ていったのに、神の言葉に背いたその瞬間から、その声がこわくなり、木の茂みの中に体を隠しました。 そして、言い訳を始めるのです。「あなたが私に下さった女が私を誘ったのです」と、あたかも神さまのせいみたいにして、自分を守るのです。 今度は女に問われたとき、女は「あなたがお造りになったヘビが私を誘ったんです」とやっぱり、ヘビのせいにしました。
そのように、人間は自分を守ろう、自分は悪くない、それは他のもののせいです、と言って、自分を良く見せようとするようになったのです。
これは私たちみんな、生れながらの人間が持っている姿ではないでしょうか。 自分を守る心、自分を立派に見せようとする心、弱い姿を強そうに見せようとする心、これをイエスさまは、パリサイ人のパン種―偽善だ、と言っておられるのです。
これはパリサイ人だけではない、私たちの誰もが持っているものなのです。そして、これをなんとか自分で改めようと思っても、どうしようもないのです。無理なのです!
自分はこんなに頑張っています、社会的にも、道徳的にも立派なことをしています、と言ってもやはり、自己アピールでしかないのです。偽善に偽善を重ねているだけなのです。 最も大切な「人への愛と神への愛」をなおざりにしていたら、見た目はどんなに立派な行いをしていても、神から見たら、それは「偽善=わざわい」なのです。 わざわいなる生き方を続けていたら、やがて神の前に立つときに、永遠の滅びへの裁きが下される! だから、愛の神は、私たちが永遠の滅びに行かないように、私たちを救うために、イエスさまをくださって、このお方を私たちの身代わりに罰することによって、私たちを永遠の滅びではなく、永遠の命を与え、神の子として天の御国で生きる者としてくださったのです!
今日は偽善ということに絞ってお話をしてきました。
イエスさまが弟子たちに警告されたことは、パリサイ人の偽善に気をつけよ、ということでした。
偽善とは、先ほど触れたように、役者が芝居をするとき、仮面をかぶって、自分でないほかの人の役割を演じるように、何かを装うということです。 パリサイ人は、神を愛して、心から神に従っているように見せてはいるけれども、民に良いことを行っているように見せてはいるけれども、それは外側をよく見せようとして、立派な行い、信仰深そうな振る舞いをしているだけなのです。内側では自分があがめられたい、尊敬されたい、ほめられたいという思いで、結局は神の栄光を求めるのではなく、自分の栄光を求めていたのです。
ともすると、私たちにも、そういうところがあるのではないでしょうか?
私自身、牧師として、信徒の皆さんから、いい牧師だ、いい説教をしているな、と思ってもらいたい、言ってもらいたい、という思いが心の奥底にはあると思います。説教が終わった後、何かひとこと言ってもらいたい! そういう欲望が心をかすめるのです。
みなさんはどうでしょうか? 毎週、ほとんどの方が礼拝を忠実に守っておられます。
失礼な言い方かもしれませんが、形だけの礼拝になっていませんか? 心から神をあがめて、賛美していますか? 語られたみ言葉は、自分に向けられたものとして、受け取っていますか? 日々、神を恐れ畏んで、そう言う姿勢で生きているでしょうか?
形だけで実質が伴わない、 人間はそうなりがちだから、だからイエスさまは、偽善には気をつけよ、と言われたのです! サムエル記第一16:7には
「人はうわべを見るが、神は心を見る」
とあります。
人の目や口を気にする生き方ではなく、神の御前に生きる生き方、神さまを意識した生き方をしていきたいと思います。
聖霊によって、いつも主イエスさまを見上げて、演技する必要のない人生を歩ませていただきましょう!