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見えたのはイエスだけ

2025,3,2 ルカの福音書9章28-36節

 

(1)祈るために山へ

 ルカの福音書9章28節に

 

これらの教えがあってから8日ほどしてイエスは、

ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

 

とあります。 イエスさまは、たびたびひとりで、山で祈られることはありましたが、弟子を伴ってということはあまりありませんでした。しかし、今日の箇所では、ペテロとヨハネとヤコブの3人を連れて行かれました。

 なぜ、イエスさまはこの3人を連れて行ったのでしょうか? よく言われるのは、この3人が弟子たちのリーダー的存在だから、と考えられています。実際そうなのかもしれません。 あるいは、その反対だから連れて行った、と考えることも出来ます。つまりこの3人は、特別そばにおいて訓練しなければならない、言ってみれば、危なっかしいからそばにおいて鍛えよう、というイエスさまのお考えではないだろうかとも思えるのです。

 福音書に出てくるペテロは、直情径行な人物で、あまり考えないで、言ったり、行動に出たりして、多くの失敗をしています。イエスさまにお願いして湖の上を歩かせて頂いたのに、風を見てこわくなり、溺れかけてしまいました。また、立派な信仰告白後、不遜にもイエスさまをいさめて、「サタンよ、引き下がれ」と叱られ、イエスさまを捕らえに来た大祭司のしもべの耳を剣で切り落としてしまったり、さらには、イエスさまの仲間だと指摘されて、3度も否定してしまったのです。

 ヨハネとヤコブについても、イエスさまは彼らに雷の子というあだ名をつけられました。すぐに、カーとなって怒りをあらわにする性格だったのでしょう。また、二人してイエスさまに、あなたが王座に着いた時には、私たちを右と左に座らせてください、などと自己中心の願いを平気で口にする兄弟でした。 彼らを放っておくと心配だから、弟子の中でも問題児だから、目の届くところにおいて訓練しよう、と思われたのだと思います。でも、彼らにとっては感謝なことでした。            

 このように考えると、今日の箇所の出来事は、3人のためにイエスさまが舞台設定をしてくださった、と考えられます。 だから29節に

 

祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

 

 とあり、人としてのイエスではなく、元々持っておられる神の子としての、栄光の姿を見せたのです。 さらに、30-31節で

 

しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

 

 とあり、ユダヤ民族の誰もが尊敬している、律法を代表するモ-セと預言者を代表するエリヤがイエスさまの最期、すなわち、聖書全体が指し示している、救い主みずからが十字架で人々の身代わりとなって死に、罪人の罪を赦し、神の子としてくださり、永遠の命を与えてくださる、神の救いの計画を語り合い、その救い主こそイエス。キリストなのだと、この3人の弟子たちにはっきりと語って聞かせたのです。

 しかし、32節

 

ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。

 

弟子たちのために、一緒に山に登ったのに、彼らは眠くて仕方なかった。けれども、祈っているイエスさまの姿が、神の栄光に光り輝き、モーセとエリヤとご自分の最期について語り合っている状況を目の当たりにしたのです。しかし、33節

 

それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが3つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。

 

ここにもペテロの性格がハッキリ見えます。「何を言うべきかを知らなかった」であれば、黙っていればいいのです。しかし、自分が目にした光景があまりにも素晴らしかったので、自分の感情だけを口にしたのです。 イエスさまが地上に来られた最大の目的のについて話していたのに、ペテロは自分のために、いつまでも、ここにこうしていたい、と言っているのです。

 私たちも霊的に鈍い時には、全くピント外れなことを言ってしまう場合があります。霊的な事柄が分からないので、この世の常識で判断し、行動してしまい、神のみこころと反対の事をしてしまったりするのです。悪魔、悪霊との戦いにおいては、霊的に鈍感であることは、霊的に眠っているということであり、まさに致命的なことなのです。 ですから、聖書は「目を覚ましていなさい」と繰り返し私たちに、警告し、命じているのです。 ペテロが感情のみで語っていると、34節

 

彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると弟子たちは恐ろしくなった。

 

雲がわき起って、彼らを覆いました。光り輝く光景がすっかり見えなくなって、暗闇に覆われると、弟子たちは、すっかりおびえてしまいました。霊的なことに思いを向けない人たちは、見えるものの確かさだけを頼りにしているので、それが見えなくなると、恐れが心を支配してしまうのです。

 しかし、「この雲に包まれる」という状況は、ただ単に、周りが見えなくなってしまった、ということだけではなく、神の臨在が彼らを覆ったということでもあるのです。ですから、彼らの恐れは、この神の臨在の中にあるという畏れでもあるのです。             

 

(2)神の愛する子、選んだ者

弟子たちがそういった恐れの中にいる時、35節

 

すると雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした

 

これは弟子たちにとって、驚くべき経験だったことでしょう。

 モーセやエリヤなどの預言者は神の声を直接聴いて、民に伝えるという、特別な召しを受けて、その働きを行っていったのですが、民の偉大な指導者、預言者と同じ経験をするとは、思いもよらなかったことでしょう。 しかし、この出来事は、神のご計画によるものでもあったのです。

 神の声を直接聞く、そして、神の言葉であるからこそ、その語られたことに徹底的に従って行こう、と言う思いにさせられたのではないかと思うのです。

 これは、私たちの信仰生活においても、非常に大切なことであると思います。

 今年、特に聖書通読をみなさんにお勧めしています。私の願いは、信徒のみなさんが、今日の3人の弟子たちのように、神さまからの語りかけを直接、個人的に聞いて欲しいからなのです。そして、語られたら、その語りかけに従って歩んでいって頂きたいのです。それこそが、クリスチャン生活の祝福の秘訣だからです! 

「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。」 父なる神が、「わたしの愛する子」神の御子だと言われ、その神の子を十字架につけて、罪人の身代わりに死なせるために「わたしの選んだ者」としたのです!

 こんなことあったのではないか、と想像した先生がいました。

 愛なる神は、人間を罪人だからといって、永遠の滅びに至らせるのは忍びない、そうかといって義なるお方でもある神は、罪をそのまま見過ごすわけにはいかない。罪は罰せられなければならない。 そこで、神は天の御使いを集めて会議を開きました。「だれか罪人の人間の身代わりになって、苦しめられ、ののしられ、あざけられて、罰せられて死んでくれる者はいないか?」そう尋ねました。しかし、・・・シーンとして、誰も声を上げません。しばらくしてから「私をお遣わしください」と言って立ち上った方がいました。それが御子イエスさまだったのです。「お前が行ってくれるのか!」 その時の父なる神さまの心境は如何ばかりだったでありましょう。ひとり子を死に渡す父の辛さ、悲しみ。それを乗り越えて、父なる神さまは、御子イエスさまを、罪人を救うために、身代わりに罰するために、選ばれたのです。

 だからこそ、そこまでしたのだから、「彼の言うことを聞きなさい。」と言う言葉で締めくくっているのです。   

 私たちはこの父なる神さまの「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という言葉を、改めて深く心に留めなければならないと思います。

 さあ、今日の結論です。 36節

 

この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。

 

 私たちが見るべきは、目を注ぐべきお方はイエスさまなのだ! ということが、父なる神さまの思いと共に、より深く受け止められたのではないでしょうか。

 今週も、聖霊の助けによって、イエスさまに目を注いで、イエスさまから目を離さずに、霊に燃え、主に仕えて、歩んで行きましょう。   

 

 

 

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