あとの者が先になり、先の者があとになる
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
- 読了時間: 6分
更新日:10 分前
2026,6,14 ルカの福音書13章25-30節
先週は素晴らしい「開所20周年の感謝」の時を持つことができました。今日から、21年目に入ります。 改めて、この教会はどんな教会としてスタートしたのかを確認したいと思います。
ジョイチャペルは「礼拝を最も大切にし、聖書信仰に立つ、新しい皮袋の教会」です。
しかし、主の宣教命令を頂いている「宣教教会」でもある、ということも忘れずに21年目を歩み出したいと思います。
今日の聖書箇所を見ていきましょう。ルカ13章30節に
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。
とあります。この最後の言葉はどういう意味なのでしょう? イエスさまはいったい、何を言いたかったのでしょう?
今日読んだ、ルカ13:25~29までには何が書いてあるのかを見ていきましょう。
家の主人が戸を閉めてからどんなに願っても、戸をたたいても開けてもらえない。外の者が、今まで親しくしていたでしょうと言っても、家の中の主人は、「あなた方のことなど知らない」と言い放つのです。
さらに「神の国」について言及します。旧約聖書に出てくる信仰者、偉大な預言者たちが神の国に入れられているのに、あなたがたは入れてもらえない、と語ります。また、多くの人が神の国で祝福されるでしょうと語りました。
イエスさまの話を聞いているのは、ユダヤ人です。彼らは、自分たちが神に選ばれた特別な存在なのだと思っていました(選民意識)。自分たちこそが、自分たちだけが「神の国」に行けると信じていたのです。
しかし、イエスさまはこの話によって、「ユダヤ人」であることだけで「神の国」に入れるのではないと明確に語られたのです。彼らは確かにイエスさまと共に食事をしたでしょう。話も聞いていたでしょう。でも、ここで「あなたがたを私は知らない。」と言われるのです。
私たちも、毎週礼拝でイエスさまのことば、聖書からのメッセージを聞いています。毎週食事を共にする「愛餐会」を行っています。 礼拝に出て、愛餐会で食事を共にしていれば、「神の国」に入れるわけではないのです。 イエス・キリストとの個人的な関係ができていなければ「あなたがたを私は知らない。」と言われてしまうのです。
マタイの福音書7:21でイエスさまは、
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
と語っておられ、今日の箇所と通じるところがあります。 何が問題なのですか? どうすればいいんですか? カギの言葉は! 「みこころを行う者」 神のみこころは 第一テモテ2:4
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
すべての人が救われること! 真理=イエス・キリストを知ること! これを神は望んでおられるのです。これが「みこころ」なのです。
イエス・キリストについて知っている、知識として知っている、ではなくて、「イエス・キリストは私の罪からの救い主! 私の人生を導いてくださる、私の主です」と信じ、心の中心に迎えること、それこそがイエス・キリストを知ることなのです!
「先の者があとになり、あとの者が先になる」とはいったい、どういうことなのか?
この最初の問いに戻りましょう。この言葉をイエスさまが具体的に説明しているのが、マタイ20:1-16です。 全部読む時間はありませんが、1節はこう始まります。
天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
今日の箇所も「神の国」について語り、マタイ20章も「天の御国」について語っています。共通しているのは、「先の者があとになり、あとの者が先になる」という不思議な言葉です。
マタイ20章を簡潔にお話しすると、ぶどう園の主人が働き手を雇うのですが、時間を追って仕事のない人を次々に雇っていくのです。朝早くの人、9時、12時、3時、さらに夕方5時の人も。
仕事を終えて、1日の賃金を支払う時、5時の人から、1デナリ=1万円ずつもらいました。最初に雇われた人たちは、「あいつらが1デナリだったら、俺たちゃ10デナリか!」と思ったら、なんと1デナリ。 そこで彼らは主人に文句を言います。「この最後の連中は、1時間しか働かなかったのに、俺たちと同じだけもらえるなんて、不公平じゃありませんか!俺たちは、朝早くから1日中、焼けるような暑さの中で一生懸命働いたんですぜ!」
それに対して、ぶどう園の主人は言うのです。マタイ21:13-14
『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか。 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
みなさん、これがイエスさまの心なのです!
「この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」
自分の思いのままに生きてきて、やりたいことをやってきて、人のことなど考えず、神などいないと、自己中心に生きてきた人が、病の床で、死を目前にしてイエス・キリストを信じる! そんな人でも、信じたら天国行きの切符を頂けるのです!
「そうか、だったら人生好きなように過ごして、最後に悔い改めて、信仰告白したほうがいいな。」
・・・これは子どもの考え方なのです。
イエスさまの心は、人生のどんな時期であっても、信じたら、罪を赦し、聖め、天国につれていくよ! なのです。
イエスさまと一緒に十字架に架けられた強盗が「イエスさま! あなたが天国に行く時には、私を思い出してください」と謙遜に、彼なりの信仰告白をしました。すると、イエスさまは「まことに、あなたに告げます」この「まことに」は、原文では「アーメン」です。「真実なことをあなたに言いますよ!」 ルカ23:43
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(天国)にいます。」
と言ってくださるのです。
十字架につけられるほどの極悪人です! どんなにひどいことを、どんなに人を泣かせるようなことを、どんなに人を傷つけることをしてきたことでしょう。 でも、人生の最後に、死を目前にして、心から「イエスさま!」と呼んだこの強盗は、神の恵みを、神救いを頂いたのです!
私たちも神の恵みに、神の救いにあずかりました! みな同じ1デナリを与えたい、それがイエスさまのお心なのです!
もう一つの「先の者があとになり、あとの者が先になる」は奉仕についても言えると思います。
多く奉仕をした者が、多くの報酬を頂き、少なく奉仕した者は、少ない報酬を、ではないのです!
ローマ人への手紙6:23には
神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
神の賜物、神からのプレゼントは「永遠のいのち」です。
この最高のプレゼントを頂いている私たちは、それぞれが置かれている所にあって、主を愛する愛をもって、喜びをもって、神と教会と人々に仕えていく者でありたいと思います。