自分の十字架を負って
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
- 読了時間: 6分
更新日:8 時間前
2026,8,30 ルカの福音書14章25-33節
今日の聖書箇所に出てくるイエスさまの言葉は、私たちに非常な戸惑いを与えます。26節
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」
「憎まない者は」とあります。
イエスさまに最も大切な戒めは何ですか? と質問した人に対して、イエスさまはマルコ12:30-31でこう答えられました
『 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにはありません。」
端的に言ったら「神を愛し、隣人を愛する」ということ! イエスさまが「憎め」と言った、両親、妻子、兄弟姉妹は最も身近な隣人であるはずです。 「イエスさま! 矛盾したことおっしゃらないでください」と言いたくなるような内容です。
「憎む」を別の言葉で訳している聖書訳があるのでは、と思って調べてみました。
私が持っている8種類の日本語訳の聖書のうち、6種類が「憎む」とありました。 口語訳では「捨てて」とあり、リビングバイブルでは「・・・以上にわたしを愛しなさい」とありました。
イエスさまが求めておられるのは、「あなたは誰を愛しますか? 誰を第一としますか?」ということなのです。
家族の中で、自分一人が信仰を持って、神さまを第一にする生活していくと、時として、
摩擦が起こったりすることもあります。
ラジオ伝道を長らくしておられた羽鳥明先生の証を思い出しました。若い時にイエスさまを信じて、喜んで家に帰ってそのことを報告すると、お父さまが怒りをあらわにして「許さん!」と言って、仏壇の前に連れていかれて、頭を押さえつけられて「拝め!拝め!」と言われたと証しされていました。
聖書は親に反抗するようにとは教えていません。逆に「あなたの父と母を敬え」と。この父母を敬うことが人間関係の最初であり、基本であると教えるのです。
あの福沢諭吉は、勝海舟にこんな質問をしたそうです。「キリスト教は親孝行を重んずるか?」 すると勝海舟は答えて「キリスト教が孝道をどの様に教えるかは知らない。しかし、私の隣に住んでいる、イギリス人の子どもが親を大切にすることを毎日見ているが、到底、我々の及ぶところではない。してみると、キリスト教は孝道、親孝行を非常によく教えるものであろう」と言ったそうです。
子どもが小学校に入るとき、学校に持っていくすべてのものに、ほんの小さな棒一本にも、すべての持ち物に、母親が名前を書いていたことを思い出します。
私たちの持っているすべてのものには、その本当の所有者であられる神の名が、イエス・キリストの名が見えざる文字で記されているのです。 誰ひとり「それは私のものです」と言える者はいないのです 私たちは真の所有者である神さまから、それを上手に管理するようにと任されている管理者に過ぎないのです。
家も、車も、家具も、毎日使っている道具も、子どものおもちゃも、本も、庭の木も、花も、ペットも、周りにある美しい自然も、財布の中のお金も、銀行に預けてある預金も、そして、時間も、子どもも、親も、友人も、そして、私たちのこの教会も、さらにあなた自身も、
私たちの身の回りにあるいっさいのものは神さまのものなのです!
神さまから預かっているものを管理する私たちにとって、最も大切なのは、その真の所有者である神さまの権威をいつも一番とし、その方の意思に従って、それを管理するということです。神さまはこれをどの様に用いてほしいと願っておられるのだろう、と問いながら管理することが大切なのです。
私たちが実際に良い管理者として生きようとすると、そこに必ず、戦いが起こってきます。
父親の命令と天の父の言葉とが、食い違う。母の指図とみことばの導きが相反するとき、
姑の要求と神さまの言葉とが衝突する時が起きてくる!
その時つらいけれども、主に従う方を選び取るのです。イエスさまは問われるのです。
「あなたは私を愛しますか? それとも、あなたの父の方を優先しますか?」
「あなたは私を愛しますか? それとも、母の方が大切ですか?」
「あなたは私を愛しますか? それとも、息子の方を選び取りますか?」
「あなたは私を愛しますか? それとも、娘の方をより愛しますか?」
私たちは生活のあらゆる場面で、この問いかけを受けているのです。 ただただ、だれを愛しているのかと。 あなたはいったい何を優先しているのかと。
建前ではイエスさまを優先します、と言うのですが、本音では、別のものが優先され、愛されてしまう。 そんな私たちの、まさに平穏を平和を打ち破るような言葉。ルカ14:26
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」
マタイ10:37では
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
「わたしにふさわしい者ではない!」さらに追い打ちをかけるようにルカ14:27が続きます
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
「自分の十字架を背負ってついて来なければ」 イエスさまは私たちに問いかけるのです。
「あなたはわたしを愛しますか? それともあなた自身をもっと愛しますか?」
今日の所で「ふさわしくありません」と3回も畳みかけるようなイエスさまの言葉を読むとき、「あ~私はふさわしくない者だな」と本当に思わされるのです。
「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」と言われるイエスさまについて行く、自分の十字架を負って! 十字架は人間として最も恥ずべき刑罰の道具であり、いっさいの誇りをはぎ取り、いっさいの希望を捨て去らせる絶望の場所です!
その十字架を負って、ということは、「私は十字架を負うにふさわしい者です。それが私にふさわしいものです」と、人々の前にさらすことです。 人々の前に「私は十字架を負うにふさわしい、恥ずべき者なのです。」と示しながら、背負って歩め、と言うのです。
そういう歩みが私たちにできるのでしょうか? 十字架を負う、ということの意味が本当によくわかったら、恐ろしさのあまり、足がすくんでしまうのではないでしょうか。
十字架を負うということを具体的に言えば、日々自分の前に出てくる「いやだなー、めんどくさいなー、避けたいなー」と思うことをする!と言うことなのです。 「これはやりたくないな~」と思ったら、それが負うべき自分の十字架なのです。
パウロはテモテへの手紙の中で「私は罪人のかしらです」と言い切りました。「罪人のかしらでした」ではなく! パウロは過去そうだった、と言うのではなく、今も「罪人のかしらだ」と感じているのです。 自分の働きを誇り、自分を誇ってしまう思いが湧き上がってしまう自分を敏感に感じていたのでしょう。 だからこそ、彼は日々十字架を負うことを示されながら、生きていたのです。だから彼は、人に伝えておきながら、失格者にならないように、自分のからだを打ちたたきながら、従わせているのです、というのです。
最後に33節
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
ここも初めに見た、26節と同じように「わたし以上に愛するものがあるのであれば、弟子にはなれません」ということなのです。
「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」とは、ジョイチャペルが大切にしているみことば、マタイ6:33と同じことをいっているのです!
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。