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盛大な宴会への招き

2026,8,16 ルカの福音書14章15-24節 

 

 11日午後8時10分、私たちの愛する中島寅雄兄が主のみもとに召されました。生前、何度かお伺いましたが、その際には、いつも天国に迎え入れられる恵みについてのお話をしていました。 みなさん! 死への備えは出来ていますか? 明日死んでも天国に行ける確信がありますか?

 キム・サンボク先生の著書に「信仰の確信をきずく『七つの土台』」という説教集があります。その一部を紹介します。

 韓国ではお腹の中にいるときから教会に通っていますという人が沢山います。クリスチャンホームで育ち、日曜学校にも忠実で、学生会の会長もして、奉仕もしているという、キム・サンボク先生もそうでした。

 奉仕も一生懸命、祈祷会、早天も、もちろん礼拝も休んだことがない。けれども救いの喜びがない、何か心が満たされない、という状態で過ごしていました。十分の一献金もさぼったことはありません。みんなからサンボク偉いねえ、と言われますが、救いの恵みをきちんと受けていなかったために、私は熱心に教会に通い続けたのに、信仰の確信がなかった! と本当に驚くべきことが書いてあるのです。

 牧師になって、ある所に奉仕に行ったとき、今度、長老になられる方が、私に「私はこの教会で役員に選ばれてしまいまして、近いうちに就任する予定ですが、奉仕するのはまだいいとしても、役員になることについては、私の心が許しません。」と打ち明けられました。

「どうしてですか」と尋ねると、次のような答えが返ってきました。「私は神さまを信じてはおりません。誰もそれをわかっていないのです。私はここにきて10年目で、教会の開拓にも携わった者です。私の周りにいた韓国人たち、留学生たちが、少なくても1週間に1回集まりをするなら、教会があった方が良いと思って、私が教会を建て上げました。しかし、実は祈ったことがありません。」 「どのようにして教会の執事になられたのですか」 「教会で一生懸命奉仕していたら、『執事になってください』と言われました。お金が必要であったとき献金を少ししました。会議でもめた時、いつも私が和解させました。そうしたら、執事会の議長に推薦されてしまいました。そして、今回は長老に選ばれてしまいましたが、適任ではないので、やらない方が良いと思っています。」 びっくりするような内容ですね。

 みなさん、「救いの確信」お持ちでしょうか? 

 

 今日の聖書箇所も、イエスさまがたとえ話をもって、大切なこと、霊的な真理を語っておられる内容です。 それは、イエスさまと一緒に招かれていた、ひとりの客の言葉

 

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

 

この言葉を受けて語られました。

 たとえ話に入る前にこの言葉について、考えたいと思います。

 「神の国で食事をする」天国での食事会、そこに招かれている幸い。天国に入れて頂ける! 人間にとってこれ以上の幸いはありません。

 人間にとって、最大の不幸は死です。すべてを奪ってしまう死! どんな大事なものも、どんなにかけがいのないものも、奪い去ってしまう死!

 しかし、この死に打つ勝つことができ、永遠に死なない命を得る道があるのです。

 それこそ何ものにもまさる、幸いなことではないでしょうか! 神の国に招かれて、永遠なる神様と、永遠に親しい交わりを持つ者とされる、それがどんなに大きな祝福であり、恵みであるかを、深く覚えて、もっともっと、もっと感謝をもって、それこそ、喜び踊る者でありたいと思います。 

 続いて16節

 

  するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。

 

「盛大な宴会」とあります。神の国の宴会は、この世のどんなに素晴らしいものにも比べられないほどの、盛大なものなのです。

 取税人マタイがイエスさまに召されて、喜んでイエスさまのために開いた宴会も「盛大な宴会」と表現されています。 取税人といえば、ユダヤ人からは仲間外れにされて、罪人、律法を守らない者とされていた人々。そのマタイに「あの神の子と呼ばれている」イエスさまから声をかけて頂いた。それがマタイにとって、どんなにうれしかったことか。ルカ5:29にこうあります。

 

 そこでレビ(マタイ)は、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

 

新改訳聖書では「大ぶるまいをした」とありますが、口語訳、新共同訳では「盛大な宴会を催した」となっています。 この盛大な宴会をイエスさまのために催し、自分たちの仲間、友人を招いて喜びを分かち合ったのです。 この盛大さ、これは、神の国に招かれている者、キリストの救いを受けた者の感謝が、どれほどのものかをあらわす「盛大さ」なのです。

17節

 

 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。

 

 ところが、招かれていた人たちは、みんな断り始めるのです。18-20節

 

最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』

  もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』

  また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

 

みんなそれぞれ理由をつけて断りました。最初の人は、「畑を買ったので」という理由。神の国への招きよりも、自分の持ち物、財産に心が向いてしまって、招きを断ってしまう! 

 もうひとりは、「牛を買ったので」 牛は農耕のための家畜、仕事があるので、忙しくしているので、そちらに行っている暇はありません。最後の人は「結婚したので」 家庭を持ったので、家庭を優先したいので、お招きはお断りします。 みんな自分の都合を第一に考えて、断るのです。

 このイエスさまのたとえは「神が私たちを天の御国に招いてくださっている」ことを意味しています。 私たちが毎日生活しているとき、自分の生活にのみに思いや心が向いている。 神の国のことについて、どれほど真剣に、また、現実的なこととして自覚しているでしょうか。 神の国の素晴らしさが、本当によくわかると、私たちはこの世のことでそれほど一喜一憂しなくなるのではないでしょうか。 この世のことが、私たちにとってあまりにも大きくのしかかってきているために、神の国が見えなくなっているのではないでしょうか。

そこで主人は、21節

 

 『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』

 

と言うのです。 これらの人たちは、お返しのできない貧しい人たち、ユダヤ人の指導者たちから見れば落ちこぼれ。神様はエリートだけではなく、落ちこぼれ人間をも招いていてくださるのです。 しかし、まだ食卓は一杯にはなりません! 22節

 

  しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

 

「街道や垣根のところ」とは、町の外、町の外にいる人、すなわち異邦人を指しています。福音は、ユダヤ人に拒まれて、異邦人の中に広がって行きました。 

 神は、神の国の素晴らしさをすべての人に味わってもらいたいと願っておられるのです。「神の国で食事をする」ということは、ヨハネの黙示録19:9に

 

 「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」

 

とあるように、小羊、イエスさまと共に食事をする、食事ができるということなのです。

 「食事」とか「婚宴」というのはすばらしい交わりのことで、それがどんなにすばらしいものであるか、黙示録21:3-4では別の表現をしています

 

 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」

 

こういうところに私たちは招かれているのです! このことが本当によくわかったら、この世の生活に執着しすぎることなく、起こって来る様々な出来事に一喜一憂することなく、ただただ神さまに感謝し、喜んで与えられた人生を歩んで行けるのではないでしょうか! 

 聖霊なる神様に導かれて、主の招きに喜んで応えていく歩みをさせて頂きましょう。

 
 

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