お返しを受けない幸い
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026,8,9 ルカの福音書14章12-14節
日本人の習慣でしょうか? 人としての常識でしょうか? 何かしてもらったとき、または、何かを頂いたときは、そのお返しをする、ということは当たり前になっていますね。
別に下心がなくても「善いこと」をすると、意識の深い所では、何か、お礼と言うか、見返りを期待してしまうのは、誰しもが持ってしまう思いなのではないでしょうか。
今日はたったの3節。「親しい人や金持ちを食事に招かないように。今度は彼らがあなたを招いてお返しをするから」とイエスさまは語り、そして13-14節、
祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
短い箇所なので、イエスさまが教えようとしていることは、とてもわかりやすい内容です。
「お返しを期待しないで、だから、お返しができない人に善いことをしなさい」ということ!
誤解してはいけないのは、お返しができない人たちに善行をしたことによって、自分が優越感を持てるから幸いだ、と言っているのではないのです!
「見返りを期待しないで 愛の業を行いなさい」と言っているのです。
マタイの福音書6章1、3-4節で語られている内容と同じです。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
善行とか施しと表現されていますが、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」と語られているということは、「人前で善行をしている」人がいたわけです。
人は何かしらの報いを期待して、善行、愛の業をするものなのです。
人間が持っている愛と言うのは、結局のところ、自分本位の愛なのです。人に一生懸命尽くしているようだけれど、一生懸命与えているようだけれど、心の深い所では、自分が満足することを求めているのではないでしょうか。
だから、自分の思い描いたような、相手からの反応がないと、今度はそれが不満となり、あるいはこだわりとなり、さらには憎しみとなってしまうのです。
悲しいかな、人間の愛は、お返しを求める愛、最終的には自分を喜ばす愛なのです。
しかし、キリストによって現された神の愛は違います。いつでも与えるだけです。イエスさまは、自分に対して反感を持つ人々に対しても、彼らを愛し、憎しみを取り除こうとされたのです。まさに、与えるだけの愛を示していきました。
祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。
この人たちは、みんな貧しい人たちです。だから、もらってもお返しができない、ただでもらうことしかできない者、そういう者を招きなさい、と語るのです。
そういう者に対して、与える自分が優越感をもって、自己満足をもって招くとすれば、それはとんでもない間違いだと言うのです。
では、友人や兄弟、親族などを招いてはいけないのでしょうか。イエスさまはそんなことを言っているのではありません。 お返し、報いを求めない心、ただで与えるだけの心、それを語っておられるのです。
私たちが、聖書を読むときの原則は、私に語られているのだ、という思いで読むことです。いつでも神さまと私、イエスさまと私の関係において受け取らねばならない、ということです。
私たちは、神さまに対してどういう存在でしょうか? 私たちは霊的に「貧しい者」です。貧しくて何も持っていないから、神さまに対して何のお返しもできないのです。霊的に「からだの不自由な者」です。自分のからだを思い通りにできない。したい善を行えず、したくない悪を行ってしまう者です。「足のなえた者」です。イエスさまのあとにどこまでもついて行けない者です。「盲人」です。聖書をいくら読んでも神のみこころが分からないのです。
私たち自身が、神さまに対して、そういう者だとわかるとき、聖書が語る言葉が、本当によくわかってくるのです。 Ⅰコリント4:7
あなたには、何か、もらったものではないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
真の神さまを信じている者であれば、この御言葉は実感できるのではないでしょうか。私たちは、神さまから、ただでもらったもので生きています。何一つもらっていないものはないのです。 何より、自分自身、与えられたものでしょう! 私たちが生きていくために必要なものは、すべて神さまが備えて、与えてくださっています。
それなのに、造り主なる神を認めないで、人間は、自分の力で存在できる者のように思って、神さまを無視して生きているのです。
神を神と思わない、そこに人間の罪という重大な問題があります。 人間が本当に神を信じて、神を神としてあがめ、神を中心にして存在していく当然な在り方をしていったら、人間の世の中は、こんなに悪い状態には決してならなかったことでしょう。
神に従うより、自分の思い、欲望を優先してしまった人間! そこから、人間の世界に罪が入り込み、人は、徹底的に自分本位、自己中心、何につけても自分を優先させる者になってしまったのです。
しかし、そのような人間に対しても、神に対して背を向けて、暗やみの中を歩んでいた人間に対しても、なお一方的に愛し、人間をこの罪の暗やみから救うために、神ご自身の御子を世に遣わしてくださったのです! この御子イエスキリストによって私たちに真の愛を示してくださったのです。
それはまさに、神に敵対する者、無視する者、神を排斥する者、そういう者をなお愛する愛なのです。この神は、なんのお返しもできない、お返しどころか、かえって恩をあだでしか返すことのできない私たちをどこまでも愛して、救ってくださったのです!
私たちがそのことを本当にわかるとき、神さま私との関係が分かるとき、私たちはどういうふうに人に接するべきなのでしょうか? ルカ6:35~36
ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
神さまは<恩知らずの悪人にも>、お返しどころか恩をあだで返す者、そういう者にも<あわれみ深い>お方なのです。 この<あわれみ深い>お方は、何のお返しも受けられない者に対して、
あなたは幸いです。義人の復活のとき お返しを受けるからです。
とおっしゃってくださるのです。主がこれ以上ないお返しをしてくださるというのです。
それは復活して、主と同じ栄光のからだに変えてくださり、永遠に主と共に天の御国で生きる者にしてくださるということなのです。
私は中学時代、死ぬのが怖くて、怖くてしかたがありませんでした。死を考えると、何も手が付けられなくなるのです。中3の12月、夜、高校受験の勉強をしていた時に、急に死の恐怖が襲ってきて、蒲団をかぶって震えていました。 でも、ヨハネ3:16のみことばを頂いて、永遠のいのちが与えられることを信じて、暗やみから光の中に引入れて頂きました。その感動と感激はいまだに消えることはありません。
神に背いてきた者、神を神とも思わないできた者。そういう者をこそ、神さまは招いてくださるお方なのです。だから私たちは救われたのです!
私たちを招き、御子イエスさまによってお救いくださった、愛と恵みとあわれみに富んだ神さまに、心からの感謝をもって従い、仕えていきましょう!