聖霊の火を投げ込む主
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 4 日前
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2026,2,15 ルカの福音書12章49-53節
私たちが何かするときには、必ずと言っていいほどそれをする目的があります。
買い物をするために、スーパーに行きます。 今日、みなさんが教会に来られたのは、礼拝をささげるためです。
もし、みなさんが誰かに「イエス・キリストは、なぜこの地上に来たのですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 「イエス・キリストは、私たち罪人のために、十字架に架かって、その罪を赦し、私たちを永遠の滅び=地獄行きの人生から、永遠のいのちを与え、天国へ導いてくださるために来てくださったのです!」 これが満点の模範解答でしょう! 「イエスさまは、私たちを救うために来てくださったのです。」 これだけでもOKです! そこから話がつながっていくでしょう。
イエスさまも、ご自分でこの地上に来られた目的を語っておられます。ルカの福音書5章31節
「罪人を招いて悔い改めさせるため」
また、ルカ19:10には
「失われた人を捜し出して救うため」
これらは私たちが理解している、イエスさまがとても分かりやすく語っておられる内容です。
今日の箇所はどうでしょう? ルカ12:49
「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」
・・・この「火」とは何でしょうか? バプテスマのヨハネがイエスさまを紹介して、こう語っています。 ルカ3:16
「その方(イエス・キリスト)は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
聖書では、聖霊を火、水、風、息、などにたとえられています。
イエスさまは、聖霊を私たちすべての者の内に、投げ込むために来られたというのです。 使徒の働き2:17でペテロが、ヨエル書を引用してこう語っています。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。』
この旧約聖書の預言を成就するために、イエスさまは来られたのです!
聖霊は火の働きをします。 私たちは、この聖霊の火に照らされて、自分の中にある罪が示され、自らの罪の姿を照らし出されるのです。それまで、自分でも見たくない、隠していた罪の姿があらわにされるのです。そして、自分でも気がつかなかった心の底の底にあった罪さえも、聖霊は照らし出すのです。み言葉を通して! へブル4:12にはこうあります。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
聖書の言葉が、御霊によって私たちに迫るとき、み言葉によって私たちの心は探られるのです。 罪があらわにされるのです、不純な思いを指摘されるのです、不従順な信仰だと思わされるのです!
「両刃の剣よりも鋭く」とあります。 心の奥深くまで刺し通し、あらわにされないものは、何一つない、というのです。 これが聖霊の火による働きなのです。
そして、その照らし出された罪を、そのまま主の前に告白するときに、聖霊は火ですから、その罪のすべてを、焼き尽くして、聖めてくださり、もはや罪なき者としてくださるのです!
ルカ12:51
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
イザヤ書の救い主誕生の預言では、イエスさまは「平和の君」と呼ばれる、とあります。イエス様は、確かに地に平和をもたらすために来られました。主がお生まれになる時に、天の軍勢は神を賛美して言いました。 ルカ2:14
「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」
この平和は、人間が考える平和とは違うのです。 人間の考える、作り出す平和は、一時的であって、長続きはしないのです。 それは、歴史を見れば明らかです。人間の歴史は、戦いの歴史と言ってもいいようなものです。 今現在も、地球のどこかで戦いが起こっています。 なぜでしょう? それは、人間が罪人だからです。 ヤコブの手紙4:1-2にはっきりと記されています。
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。
ですから、人間の本質的な問題である罪を解決しない限り、いくら人間が努力して平和を作っても、長続きせず、やがて崩れ去ってしまうのです。
この罪の問題を解決して、一時的でない、永続する平和を得るためには、まず、私たちひとり一人が「神との平和」を得なければならないのです!イエスさまによる永遠の平和!
神との平和を得るためには、罪の解決が必要なのです。 罪には必ず罰が伴います。罰せられなければ罪は償われません。
犯罪者が警察の追及を逃れて、逃げて逃げて逃げまくっても、罪はなくならないのです。常に自分の罪におびえて暮らすしかありません。警察に捕まらなくても、いつまでたっても、安心して、平穏な気持ちで生活することはできないのです。なぜですか? 罪を持ったままでいるからです!
聖書は、「罪の支払う報酬は死である」と言います。この死は、永遠の死、永遠の滅び、永遠の苦しみだと言うのです。
私たちは、誰もが、永遠の滅びに至る、罰を受けなければならない罪人です。そんな罪人の私たちを、あわれに思い、かわいそうに思われた 愛なる神さまは、なんと、ひとり子イエスさまを、神であるのに人としてこの世に遣わし、このイエスさまは、罪なき生活をして、やがて私たちの罪を全部背負って、身代わりに罰を受け、死なれたのです。
「イエスさまは、私の罪のために身代わりとなって、十字架で罰を受け、死んでくださったのだ」と素直に信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、罪なき者と認められ、神の子とされます。そして、イエスさまが死を打ち破って、よみがえられたように、信じる者には復活の命が与えられ、永遠のいのちの希望が与えられるのです! イエスさまによってのみ、私たちは「神との平和」を得ることができるのです。
もう一度、51節を見てみましょう
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
聖霊の働きによって「神との平和」が用意され、差し出されているのに、喜んで受け取る者もいれば、拒否する者がいるのも事実です。 ですから、52-53節
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。
こういう現実を経験した方も、いらっしゃるのではないでしょうか。特に、家族の中で、一人自分だけが信仰を持っている場合などは、様々な戦いが、摩擦が、批判が起こり、対立が生まれてしまうでしょう。
特に、日本では99%がノンクリスチャンですから、どこに行ってもクリスチャンは極端に少数派なわけです。 その中で信仰を守り通す、さらには、はっきりと表明する、証するには、困難を感じ、まさに戦いであろうと思います。
私たちクリスチャンは、キリストの弟子とされ、福音を宣べ伝えていくように命じられています。
だからと言って、とにかく語ればいいと言うものでもありません。今、置かれている状況を考えて、 現実的には、祈りつつ、知恵を頂いて対応しなければ、かえって福音の門を閉ざしてしまう事になりかねないでしょう。
だからと言って、妥協して、周りに迎合していったら、クリスチャンとしての存在意義がなくなってしまいます。 難しい問題ですが、だからこそ、祈って、普段から周りの人たちと良い人間関係を築いて、信頼を得ていくことが大切なのです。
我が家は偶像礼拝の家でしたが、私が小学生のころから教会に行き続ける姿勢を、あきれながらも認めてくれていたのだと、今振り返るとそう思います。やがて、両親とも教会に来るようになり、家の近くの公共施設で定期的に集会を開いていただき、毎回喜んで出席していました。
今、私はどう考え、どう行動したらよいのかを、祈りながら、聖霊によって、みことばの語りかけを頂きながら、忠実に、従順して歩んで行きましょう