一つのからだには多くの器官が
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

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更新日:2 日前
2026.1.25 今週の講壇 ローマ人への手紙12章1~9節
私たちはこの年、20周年を迎え、会堂をどうすべきかという、大きな祈りの課題をもって歩み始めました。 これも、神様のご計画の中にあることだと思います。慌てず、恐れず、浮足立たないで、地に足のついた信仰の歩みをしていきましょう。 どんな状況の中に置かれても、クリスチャンの基本である、祈りとみ言葉! 心からの礼拝をささげていくことを大切にしていきましょう。
新年に与えられた聖書の言葉は、ローマ人への手紙12章1節の
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
私たち自身をささげる!全存在、全生活をささげていくのが、クリチャンの歩みです、と年始めにお語りしました。 では、この聖書の言葉は、自分にとってどういうことなのか。そのことを、ぜひ、祈って神様からの導きを、示しを、頂いてほしいと思います。
私たちは、神様から「救い」という、何物にも代えがたい恵みの賜物を頂きました。罪を持ったままであったら、やがて永遠の滅び、世に言う地獄に行かねばならない者が、神の愛と恵によって、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、天国への希望が約束されました! そして、この地上にあっては、不安と恐れから解放され、平安と喜び、祝福と感謝にあふれた、恵みの人生を歩ませて頂いています。
こんなに大きな愛と恵みと祝福を下さった、神様に対して私たちは、何をもって応えたらいいのでしょうか? ヨハネの手紙第一3章18節には
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
とあり、また、使徒の働き20章35節で主イエスご自身が
「受けるより与える方が幸いである」
と言われたとあります。 聖書の原則は、繰り返し語っていますが、御言葉を信じて従ったら祝福されるのです!
私の願いは、ここにいるすべての方が「神さまの恵み、祝福は素晴らしい」というレベルではなく、「神さまが下さる、恵み、祝福というのは、考えられないような、ものすごく大きく、素晴らしいものなんですね!」と言わざるを得ないような体験をして欲しいということ!
今日は12章2節以降を見ていきたいと思います。 自分をささげるとは、どのようなことを行なえば良いか、その方法について書かれています。 2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
自分のからだを神さまにささげ、生活のすべてをもって神の栄光を現わそうとして、礼拝の日々を過ごすとき、当然の結果として、その生き方、生き様は、この世とは異なったものになってきます。 この世というのは、神様に背を向けて、無視して、自分勝手に生きるという世界です。 ですから、そんな「この世と調子を合わせてはいけません」というのです。
そうすると、信じた時に私たちの内に住んでくださった、聖霊が私たちを変えてくださるのです。どのように? 思考が、考え方が変えられる、どう変えられるのでしょう? 「神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、喜ばれ、完全であるのか知るため、見分けることができるように」変えられるのです!
心の一新によって、自分を変えて頂いて、神様に喜ばれることは何かを考えて生きる者としてくださるのです。
教会というのは原語ではエクレシアと言います。その意味は、神様が召してくださった者の集まりであり、私たちクリスチャンの集まりこそが教会なのです。
ですからパウロは、この4~5節の中で、この集まりのことを一つのからだにたとえています。 人間のからだにたとえて、からだには多くに器官、多くの部分があって、すべてが同じ働きはしない、目は目の働き、鼻は鼻の働き、口は口の働き、手は手、足は足。そして、それぞれの器官は自分のために働いていない。ほかのもののために仕え合っている。体の各器官は、決して自分のために存在しているのではないと語るのです。 たとえば、自分の左手がかゆい時、どうします? 左手がかゆいのだから、左手が自分でかけばいいでしょう。でも、どんなに頑張ってもかけない。しかし、左手がかゆければ、自然に右手が来てかくわけです。もし右手が「俺は俺の人生を行く。自分のことは自分でやれ」なんて言っていたら、とんでもないことになってしまいます。
私たちのからだの各器官は本当に、それぞれが自分の分を果たしながら、互に仕え合っているのです。教会もそのようだと言うのです。教会の中には、小さくても、目立たなくても、役立っていないように見えても、必要のない者は一人もいないのです! どうぞ、「私なんか、いてもいなくても同じです」などとは決して思ったり、言ったりしないようにしましょう。
この教会も20年になりました。しかし、教会の中にあるもので、今まで一度も使ったり、役に立つことがなかった物があります。お世話にならなかったもの。 消火器です! では、なくてもよかったのでしょうか? 「いいえ!」ですよね。
ある教会での出来事を紹介いたします。 その教会は古い教会堂になってきて、あちこちガタが来ていました。風が吹くと、窓がバタン、バタンと音がするような。 ある時、教会の在り方について話し合いをしていた時、ひとりの方が「私たちのこの教会、あそこにもここにも欠けがある、問題がある」と実に的確に教会の問題点を指摘し、批判をしました。そして、良く閉まらないガタガタ音のする窓を指さして「言ってみれば、あの窓のようなものだ」と言われました。
翌日、月曜日。朝早く、牧師が会堂で何か大きな音がしているので行ってみると、きのう、ただ黙って話を聞いていた、信仰生活の長い、年老いた長老さんが窓を直していました。近づいてあいさつすると、「わしゃ―、恥ずかしゅうて、恥ずかしゅうて、教会の窓ひとつ直っていない、と言うことばを聞いた時、とにかく、わしゃ―、恥ずかしゅうて」と恥ずかしかったと言うのです。
教会のことを批判したり、非難したりすることは、本当に簡単です。教会にしばらく通っているうちに、教会の問題点をいっぱい見つけることでしょう。しばらく牧師と付き合うと、牧師の欠点をいっぱい見つけることができるでしょう。 しかし、一つのからだなる教会の一部として、私たちが自分の存在を見るとき、その弱さ、欠点、問題を私たちも「わしゃ―、恥ずかしゅうて」と言わざるを得ないのではないでしょうか。
12章9節にはこうあります。
「愛には偽りがあってはなりません。」
直訳すると、「愛は偽善にならない」です。愛は、仮面をつけた役者のようにふるまわない。 私たちクリスチャンは、この愛と言うことばに、慣れ親しんでいます。神の愛を知り、経験している者として、今度は、私たちが互いに愛し合うべきだ、ということをよく知っています。
しかし、現実には、私自身、なんとこの愛と程遠い存在であるかを知って、自分自身あきれてしまうのです。愛もないのに、愛があるかのように装い、愛を語る自分自身。こんな自分が語っていいのかと! 本当に恥ずかしく思うのです。
パウロは「愛には偽りがあってはならない」と語ります。そして、その偽りのない愛を抱くために、具体的には、「悪を憎み、善に親しみなさい」と語るのです。
偽りのない愛をもって、互に愛し合って、神さまに喜ばれる教会を建て上げていきましょう!