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神の安息に入る

2026.2.1 ヘブル人への手紙4章1~11節 

 

 今日の聖書箇所の中心テーマは,「安息」「神の安息」です。

安息を辞書で調べると「心身を安らかにし、静かに休むこと。」とありました。この辞書の安息の意味を知った時、私の安息のイメージが浮かんできました。 私にとってのごく身近な例あげると、毎日、我が家の風呂に浸かって、ゆったりするわけですが、さらに大きな浴槽で、体を伸び伸びと広げられることは、小さな安息の時間なのです。ですから、そういう時間を求めて1年に数回、スーパー銭湯に行くわけです。 でも、私のこの安息の時は、行った時だけのほんの2~3時間だけですが、今日、お語りするのは、そんな一時的なものではない、「神の安息」なのです。          

 

 今日の箇所では、この安息と言うことばが、いろいろな形、意味合いで使われています。

 そのひとつは、エジプトで数百年間奴隷状態であったイスラエルの民が、神の力によって脱出をし、モーセに率いられて、荒野を40年の間さまよった挙句に、いよいよ約束の地に入る、この約束の地に入ることを、安息の地に入ると言うことばで表しています。

 しかし、実際にその安息の地に入ることのできたのは、エジプトを出てきたときに成人だった人たちの中では、ヨシュアとカレブの二人だけだったのです。 いよいよイスラエルの民がその約束の地に近づいたとき、モーセは、イスラエルの12部族の中から12人選んで、今から入っていこうとしている地、約束された、安息の地がどんなところか探ってくるようにと命じ、偵察隊を送ったのです。  

 遣わされた12人は、40日間にわたって、その地を巡って探りました。そして、ひと房があまりにも大きいので、二人が棒にひっかけて担がねばならないほどのぶどうを持って帰ってきました。彼らは、「このぶどうでもわかるように、あの地は乳と蜜の流れる素晴らしく肥えた土地です」と言いました。

 しかし、「その地に住んでいる民は強く、町は城壁に囲まれた堅固な町々で、そこに住む人々は、巨人のように大きく、彼らに比べると自分たちがイナゴのように見えました。彼らも、私たちをイナゴのように見えたでしょう。」 そんな報告をしたものですから、民は一晩中大声で叫び、嘆き悲しんだのです。 そして「ああ、私たちはエジプトで死んでいた方が良かった。荒野で死んでいた方が良かった。そんな巨人たちに殺されるよりは、エジプトに帰ろう!」と言い始め、完全に心がくじかれてしまったのです。

 しかし、その12人のうちの二人、ヨシュアとカレブは、そのような反応の民の姿を見て、叫びました!

 

私たちが巡り歩いてきた土地は、素晴らしく良い土地です。もし、私たちが主の御心にかなうことができたら、私たちはあの地に導き入れて頂くことができます。その地の人びとを恐れてはならない。逆に彼らが私たちの餌食になるのだ。主が私たちと共におられるのだ!彼らを恐れてはならない」 

 

 ヨシュアとカレブは、堅く信仰に立って、民を励まそうとしました。すると、なんと民は、ヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたのです。 そこに神が待ったをかけ介入されたのです。

 遣わされた12人のうちの10人は、敵と自分たちとを見比べました。 しかし、ヨシュアとカレブは、敵と、自分たちと一緒におられる神とを見比べたのです。 

 私たちがもし、問題と自分しか見なかったら、まさに自分がイナゴのように、弱く、無力な姿しか見ることができないでしょう。「ダメです、無理です、そんなこと不可能です!」と言うでしょう。 しかし、それが不信仰だと言うのです。問題と自分しか見なければ、それは不信仰であり、全てを否定的にしか見られない、そして、状況を誇張してしまうのです。

 事実は、違っていました。ヨシュア記を見ると、ラハブという女性の話を通して、実は、その約束の地に住んでいた人たちは、次第に近づいて来るイスラエルの民の情報を得ていました。イスラエルの民には、神が共におられて、様々な奇跡を通して、勝利に次ぐ勝利を収めてきた。そんな情報を得ていたので、彼らの方が、実はおびえていたし、震えあがっていたのです。 

 神様を見失い、その約束を忘れてしまうと、私たちもこのイスラエルの民と同じ失敗をし、敗北してしまうことになるのです。

 彼らは、神の約束を何度も何度も聞いていました。「わたしが共にいる」「恐れることはない」「勇気を出しなさい」「わたしの力であなたは勝利するのだ」。 しかし、そのような神の約束の言葉も、彼らには、何の益にもならなかったのです。4章2節

 

  福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

このみことばはとても大切です。 ヨシュアとカレブの二人は、問題と自分たちの間に神を入れて見、10人は問題と自分たちしか見ませんでした。

 「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかった」のです!

 私たちは聖書を読んだり、聖書からのメッセージを聞きながら、そのみことばが、果たして自分にとって益になっているかどうか? 問いかけられているのです!

 みなさんが読んでいる、聞いているみことばが、信仰によって、あなたに結び付けられていなかったら、適用することがなかったら・・・。馬の耳に念仏とか、クリスチャンの耳に聖書の言葉、などと表現されてはならないのです。何の益にもならないということではならないのです!

 この「結び付けられる」というこの言葉は、とても意味深い言葉が用いられています。ある英語の聖書では「聞いたことが信仰によってブレンドされなかったからだ」とあります。ブレンド=まぜあわされること(がなかった)。 教会での愛餐会で出されるカレーはおいしいですね。作ってくださる方々が、何種類かのカレールウを混ぜ合わせて調理してくださっているからです。

 聖書のみことばと自分自身の日々の生活、現実の様々な歩みがブレンドされる、ということが大切なのです。 自分の具体的な日々の歩みの中に、聖書の言葉を適用する。聞いたみことばを、読んだみことばを、覚えたみことばを自分の生活に適用する、それが生きた信仰なのです! この信仰がみことばと自分自身を結び付ける働きをするのです!

 聖書の言葉と自分の生活の間に仕切りがあって、それが決してブレンドしないように、交じり合わないようにしてしまう事がないでしょうか。 聖書と現実の生活は別物、社会生活の中に、みことばをブレンドするなんて、そんなのは不可能。聖書の言葉は教会の中だけ。教会から一歩出たら別の原理で生きていく。 そうではなく、ぜひ、教会と教会外と2つの顔を使い分けないで、みことばをあなたの生活にブレンドして欲しいのです。 そうでないと、聞いたみことばが益にならないのです。

 「神の安息に入る」ことの意味は、最終的には、天国に迎え入れられることです。

 そして、この地上にあっては、イエスさまの十字架の恵みを信じることによって、罪が赦され、汚れが聖められ、神の子としての特権が与えられ、永遠のいのちの希望が与えられて、この世にある限り、神を喜び、感謝をもって賛美する、それこそが安息の人生を歩んでいくことなのです。

 ただ、安息の地に入っても、イスラエルの民がそうだったように、戦いは続くのです。ヨハネの福音書16章33節でイエスさまも言っておられるように

 

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 

この世にあっては、患難が、苦難が、困難が、難しい問題がありますよ、と言われるのです。 「しかし、勇敢でありなさい。」とありますが、多くの聖書訳では「勇気を出しなさい」となっています。 なぜ勇気が出せる? 自分で自分を奮い立たせる、ということでは無理! それは「わたし(イエス)はすでに世に勝ったのです」と言われるからです。詳訳聖書では、「世からあなた方を害する力を奪い取った」とあるのです。このお方が、マタイの福音書28書20節で

 

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 

と約束してくださっているのです。

 この世にあっては、この救い主、「イエスさまと共にあること」が、「神の安息に入る」ことなのだと信じ、受け入れて、日々、主を喜び、感謝し、賛美しつつ歩んでいきましょう。 

 
 

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