top of page

聖霊によって喜びにあふる

更新日:6月2日

2025,6,1 ルカの福音書10章21-24節 

 

(1)聖霊によって喜びにあふれ

 今日は、この聖書箇所から「喜び」についてお語りしたいと思います。ルカ10章21節。

 

 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。

 

イエスさまが喜びにあふれて、と表現されています。 イエスさまが喜びにあふれたということは、聖書の中にはここしかありません。福音書の中で、イエスさまの感情が書き記されている箇所は、そんなに多くはありません。 特徴的なのは、イエスさまが人々をあわれんでおられる箇所です。マタイ9章36節では、

 

また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた(深くあわれまれたー口語訳聖書)。

 

とあり、また、マルコ1章41節では、重い皮膚病の人がいやしを求めてやってきた時に

 

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

 

とあります。さらには、イエスさまが涙を流したり、泣いたり、嘆いたりしておられる所もありますし、怒ったり、憤っておられる所もあります。

 しかし、イエスさまが感情をあらわにされる場面は、全体から見ると、ほんのわずかしかありません。 

 しかし、今日の箇所では「喜びにあふれた」という表現があります。21節

 

 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。

 

ここで私たちが見過ごしてはならないのは、イエスさまが喜びにあふれておられたのは「聖霊によって」ということなのです。 ただ単に嬉しいことがあったから喜んだ、というような個人的な喜びではなく、イエスさまが救い主として、この地に来られた使命が果たされつつある、そのことのゆえに、喜んでおられるのです。 

 イエスさまは、「聖霊によって喜びにあふれて」、父なる神さまを賛美し、ほめたたえておられます。21節後半

 

天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 

ここで教えられるのは、「聖霊によって喜びにあふれる」と、賛美と祈り(賛美の祈り)が出てくるということです。 これはイエスさまに限らず、私たちにも共通することですね。

 たとえば、私がある人の救いのために、ずーと祈って来て、その人が救いに導かれたら、それは大きな喜びであり、主を賛美し感謝するでしょう!「ハレルヤ!神さま感謝します」と感謝と喜びがあふれ出て来るでしょう。それはまさに、聖霊による喜びと感謝が、賛美の祈りとなって、内側からあふれ出てくる、ということなのです。

イエスさまはこのように、時として賛美の祈りをされました。5千人の人々にパンを食べさせる奇跡をされた時も、新共同訳聖書、ルカ9章16節を見ると

 

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために、賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

 

とあります。

 今日の箇所に戻ります。なぜイエスさまは、「聖霊によって喜びにあふれ」たのでしょうか? もう一度21節を見ます。

 

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。

 

「ちょうどこのとき」をあります。どの時ですか? この直前に、70人の弟子がイエスさまから遣わされて、帰って来て報告をしたときのことです。弟子たちが、文字通り、主の弟子として歩み始めた、それを知られたからなのです。 彼らはまだまだ、いろいろな点において未熟でした。しかし、父なる神の恵みによって救われ、未熟ながらも、主の弟子として歩み始めていたのです。 ですから、イエスさまは、弟子たちのことについて感謝の思いをもって、賛美の祈りをささげられたのです。

 

(2)幼子のように

 この賛美の祈りの中で、イエスさまは幼子という言葉を使っています。ここでは弟子たちのことを指していると言っていいでしょう。 弟子たちは二重の意味で幼子のようであったと思います。一つは、彼らが「賢い者や知恵のある者」ではなく、幼子のように知的レベルが低い、という点です。無学な漁師や取税人でした。 もう一つの重要な点は、幼子のように素直に神の救いの福音を受け入れることができたことです。ルカ18章16節には、

 

しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 

とあります。ですから、イエスさまは聖霊による喜びにあふれて、この事について、父なる神に賛美の祈りをしているわけです。

 信仰生活においては、私たちも幼子のように、素直に神さまの言葉に従うことが大切であり、それこそが主に喜ばれることだと、心に刻みたいと思います。

 

(3)いつも喜び

今日は21節に集中したいと思います。もう一度

 

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。

 

「喜びにあふれて」いい言葉ですね。この教会はジョイチャペルです。喜びにあふれる教会です。土台になっているみ言葉は、第1テサロニケ5章16-18節

 

 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

18節の後半もぜひ暗唱したい内容ですね。これは、神さまが、望んでおられることなのだ、ということ! 

 このみ言葉は、クリスチャンならみんな知ってるし、暗唱もしているでしょう。しかし、次の19節を私たちは忘れてはならないと思います。

 

 御霊を消してはなりません。

 

聖霊様を消してはならない、否定してはならない、無視してはならない、ということ! 聖霊なる神さまは、クリスチャン一人一人のうちに住んでいてくださって、私たちを助け、励まし、慰め、いやし、導いてくださる、真理の御霊なのです。 このお方に頼っていったら、私たちの人生は揺るがないものになります! 真理を悟ることができます! だから、御霊によって、聖霊によって、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝できるのです。

ルカ10:21と繋がりますね。「聖霊によって喜びにあふれて」なのです。

 いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝したら、職場が変わるでしょう、学校が変わるでしょう、地域が変わるでしょう。ひとりでいる時も、これを実践したら、主が命じておられることを自分のものにすることができたら、自分も周りも変わります。   

 問題は、それができないこと!  だから聖霊の助けを頂くのです! 聖霊様が助けて下さるから、私たちの人生で驚くべきことがなされていくのです! ぜひ、このことを心に留めて頂きたいと思います。

 最後に、今日のメッセージの準備をしている中で、5月、1か月に語らせて頂いたり、聞かせて頂いた礼拝説教などを、振り返るように導かれました。そして、今、神さまがこの教会に語られていることの一貫性を示され、畏れの念を抱かざるを得ませんでした。

 私たちは、何を喜ぶべきか? それは神の愛によって恐れと不安、死の恐怖から救われたこと! では、救われた者はどう歩むべきか? 神に喜ばれる歩みをすること!

 主は、働き手が少ない、と言われている。あなたは熱くもなく冷たくもない、なまぬるいから吐き出す!と言われました。 私は、厳粛な思いにさせられました。これは、この教会に、何より牧師である私に語られていることであり、教会、牧師の在り方が問われていると受け取りました。

 私たちはもう一度、主の前に静まって、主が何を私に語られているのかを、待ち望み、語られたことに、従順する歩みをさせていただきましょう。聖霊の助けによって!

 
 

最新記事

すべて表示
公義と神への愛こそ

2025,9,7 ルカの福音書11章42-44節      先週は、イエスさまを食事に招いたパリサイ人に対して、外側はきよめるが、内側は貪欲と悪い思いとでいっぱいではないか、持っている物を施すこと、与えることによって、聖い者となりなさい、と痛烈に批判した箇所を見ました。...

 
 
外側ではなく内側を

2025,8,31 ルカの福音書11章37-41節    今日の中心的な内容は、説教題そのもの。「内側と外側」についてです。37節から    イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれ...

 
 
暗やみを照らすまことの光

2025,8,24 ルカの福音書11章33-36節      18日(月)から20日(水)まで、奥多摩バイブルシャレーというキャンプ場で、今年の「ファミリーキャンプ」を行いました。キャンプのテーマは「喜びをもって主に仕えよう」ということで、キャンプ全体を通して「主に仕える」...

 
 

ジョイチャペル

©2023 by JOYCHAPEL. created with Wix.com.

bottom of page