神、我らとともにあり
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 48 分前
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2025.12.7 マタイの福音書1章18-25節
今日はマタイの福音書からクリスマスのメッセージをお語りしたいと思います。
ルカの福音書1章には天使ガブリエルがマリヤに現れて「おめでとう、恵まれた方」と受胎告知をするわけです。 「お言葉通りこの身になりますように」、とマリヤは天使のみ告げを受入れますが、でも、想像してみるとマリヤは結構苦しんだのではないかなと思うのです。
「ヨセフは信じてくれるだろうか、家族は、周りの人たちは、」と思ったら、悩み苦しんだろうと思います。
マタイの福音書はヨセフについて記します。マリヤのことを知ったヨセフは、1章19節
彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようと決めた。
彼も、悩み、苦しんだのです。そういう状況の中で20節
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」
「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。」と語られるのです。「恐れないで」は「心配しないで」とも言える言葉でしょう。しかし、そう言われても心配しないではいられないでしょう。
でも、そういう思いを持ちながらも、最後は、24節で
主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ
とあるように、語られたとおりにしたのです。 二人とも、悩み、苦しんだん結果、受け入れる決断をしたのです。
神様はみ手の中ですべてのことを計画しておられますが、すべてをご自身でしてしまう訳ではなく、私たちが主に信頼して生きることを願われるゆえ、あえて、私たちが勇気を持って行動しようと決断する機会をお与えになるのです。
私たちだって悩むことがあります。苦労することがあります。なんでこんなことが、とそういう辛いところを通りながら、神様の素晴らしい御業がなされるんだ、ということを知っていただきたいと思います。
今日お伝えしたいことの第一は、「心配しないで、神様に任せしましょう」ということです。
ある牧師さんがこんな証をされていました。
私の母は8年前に天国に帰りましたが、乳がんであることが分かった時に、手術の前日にお見舞いに行った私にこう言いました。 「私は心配しないことに決めたの」 すごい信仰だなと思いませんか。心配がなくなるわけではありません。でも心配しないことに決める、そういう生き方ができるんだ、と思わされました。 どうしてできるんでしょう。それは神様が働いてくださる! だからこの方にお任せできるんだ、ということなのです。
アメリカのミシガン大学で「心配事の研究」をしたそうです。その研究によると、心配をしている人、その心配事がどれくらいその通りになったと思いますか? ならなかったのが96%だそうです。 96%! 4%しか心配事がその通りになるだけ、だったそうです! だから、心配する必要なんかないですよ。ポジティブに行きましょう。そういう本が、日本でもたくさん出ています。心配は9割が本当にならない、っていう本もたくさん売れたそうですが、これは、科学的、心理学的なアプローチで、「そうなんだ、そういうことなら、心配、悩みに時間を費やす必要がないんだ」と思うかもしれません。
しかし、クリスチャンの、そして聖書に基づく考え方は違うのです! 聖書は私たちに「心配ご無用」、と語るのです。どうしてでしょう? それは9割が起こらないから、ではなく「主が共におられるから」なのです。 心配ご無用! どうしてですか? 神様が私たちの人生にご介入されている、だから 神様にお任せでき、心配しないで生きることができるのです!
みなさん、私たちの内側には、主がおられるのです。 というのはイエス様はこの地上に来られて、天国に帰られ、今、父なる神様の右にいらっしゃるわけですが、聖霊様がここにおられる、ということなのです。 聖霊様がみなさんと共にいてくださるのです。 このお方にお任せすることで心配しないで生きることができるのです。
イエス様が 十字架にかかられる前に、聖霊様について語られました。ヨハネ福音書14 :16
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
聖書(新改訳 第三版)の「助け主」に※がついていて、脚注を見ると「ギリシャ語パラクレイトス(援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人)」と注釈あります。また、詳訳聖書では、慰め主、助言者、助け主、とりなすもの、弁護者、激励者、援助者と、たくさんの意味があることを記しています。
私たちには弁護士がいるんです。 私たちに助言してくださる、知恵をくださる、アイデアをくださる、励ましてくださる 落ち込んでいる時は、慰めてくださる聖霊様が私たちの内側にいてくださるのです。だから、心配事はありますし、今週だってあるかもしれません。でも胸に手を当てて思い出してください。聖霊様がここにおられるから、この方にお任せして、子育てのこと、夫婦のこと、人間関係、職場のこと、いろんなことがありますけれど、心配しないで神さま、聖霊様にお任せしていきましょう。
もう一つ、お伝えしたいのは、マタイ1章22節と23節、
このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
イエス様には別名というか、もう一つお名前が与えられていたのです。それは約束されていた、預言されていた、「神は私たちとともにおられる」という意味を持つ名、インマルエルなのです。
イエスさまが、復活され天に帰られる前にこう約束されました。マタイ28章20節
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
みなさん、この「いつまでもともにいます」との言葉は、私たちに対する約束でもあり、宣言なのです。
イエスという名前は、「主は救い」ですが、 もう一つの名前、インマヌエルは「神様が共にいてくださる」という、私たちにとってなんとありがたい、安心できるお方であるかをハッキリと覚えさせてくださる呼び名なのです。
ですから、第二番目にお伝えしたいことは「神が共におられることを喜びましょう」です。
無理やり喜ばすのは難しいかもしれませんが、神が共におられる! だから喜びましょう、ということです。 何があっても、どんな一年であったとしても、主が共におられます。気づかなかったあの時も、主が共におられたのです。 「足跡」という賛美歌に、「あなたが一番つらい時に、わたしがそばにいなかった、と思ったでしょうが、わたしはあなたを背負って歩いていたのですよ。だからあの時は一人分の足跡しかなかったのだよ」とイエスさまが語られた、という詩があります。
みなさん、この年末忙しいかもしれませんけれど、「クリスマスは神様が共にいてくださる、それを体験する毎日でありたい」と思います。
神様が、聖霊様が共にいてくださるなら、私たちに知恵を、力を与えてくださるでしょう。 イエス様の愛が広げられるために、私たちが、何ができるか。 もう一度、神様が共にいることを、私たちが体験することを通して、「ああ あの人違うな」「クリスチャンっていいな、私も教会に行きたいな」。 そう思われるように、改めて、主が共におられますということを体験させていただきたいと思います。
このクリスマスの時期、みなさんでご一緒に、主が共におられるということを体験させていただこうではありませんか!