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幸いなしもべたち

2025,11,23 ルカの福音書12章35-40節

 

 今日の聖書箇所は、本来48節までで一つの話になっているので、そこまでの内容にも触れながらお語りしたいと思います。   

 35-48節には何が書かれているかと言うと、主人の帰りを待つしもべは、どのような態度で待つべきなのか―主人としもべの関係―を、イエスさまは語っておられるのです。そしてそれは、主の再臨を待つクリスチャンの態度はどうあるべきかが語られているのです。 

 私たちが神様から与えられる恵みは、大きく4つあると言われ、「四重の福音」と呼ばれています。それは

 

四重の福音

1,新生(救いの恵み)

2,聖化(聖め、聖霊の恵み)

3,神癒(癒しの恵み)

4,再臨(イエスさまが再びおいでになる 天国の恵み)

 

この4つです。 聖書が語る大切な福音の内容の一つである再臨が、今日の箇所で語られている前提になっているのです。 そこで、再臨について聖書はどのように言っているのか、少しだけ見てみたいと思います。 

 最もわかりやすく言っているのは、イエスさまが復活された後で、天に帰られる姿を弟子たちが見ていた時に、み使いが彼らに語った言葉です。使徒の働き1:11

 

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 

とあります。 また、「主イエスが再び来られる」と言う言葉が第一テサロニケには、4回も出てきます。さらに、イエスさまご自身が「わたしはすぐに来る」と黙示録22章で3度も繰り返し語っておられます。

イエスさまは私たちを愛して、救うためにこの地上に来てくださいました。救い主として、2千年前に来てくださったのです。それがクリスマスです。

それでは、再び来てくださるのは何のためなのでしょう? ヨハネの黙示録22:12でイエスさま自ら語っておられます。

 

 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」

 

再臨のイエスさまは、王の王、主の主としてこの地を治めるため来られ、そして、王として、裁き主として、すべての人を「それぞれのしわざに応じて報い」られるのです。それはマタイの福音書25:31-46で、やがてすべての人が集められて、羊飼いが山羊と羊を分けるように彼らをより分け、それぞれのしわざに応じて報いを言い渡している姿なのです。

 

 このようにして、やがてイエスさまが再びおいでになるのを、私たちクリスチャンはどのようにして待つべきなのかが、今日の箇所で語られているのです。35-36節

 

 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

 

イエスさまは本当に、聞く者にとってわかりやすい、身近なもの、身近なことを取り上げて話をされ、「ああ、そういう事か」と理解をさせてくださるのです。

 今日のイエスさまのお話は、婚礼に出かけていた主人が帰って来る、と言う状況を想定して語られていくわけです。 当時のユダヤでは、婚宴は夕方から始まったと言われています。しかも、その婚宴が、夜で終わるのか、夜中まで続くのか、それとも明け方まで続くのか、わからないのです。時間無制限で、主催者次第と言うことなのです。

 そういう中で、しもべたちは、主人が帰って来るのを待っていなければならなかったのです。 どのように待っていればいいのでしょう。 たとえば、主人が帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けて「ご主人様、お帰りなさいませ。遅くまでお疲れさまでした。すぐにお休みになられますか。ベッドの用意はできておりますが。 それとも、まずはお口直しに冷たいウーロン茶でもお持ちしましょうか?」などと言うかどうかは別にして、そのような心構えで、いつ主人が帰って来てもいいように、しっかり準備をして待っていることが、「そのようなしもべたちは幸いです」と繰り返し言われているしもべの姿なのです。

 ところが、その反対に不忠実なしもべの姿も、イエスさまは具体的に語られています。45節

 

 ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始める

 

とあります。このしもべは「主人の帰りはまだだ」「主人の帰りは遅い」と勝手に思い込んで、自分が主人になったような気持ちになって、自分の思いのままに言ったりやったりと、勝手なふるまいをし始めるのです。 すると、46節

 

 しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。

 

主人は必ず帰って来る! 再臨はある! それは裁きの時でもある! しかし、その時がいつかはだれも知らない、父だけが知っていると言うのです。マタイの福音書24:36

 

 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 

イエスさまさえも知らないのです。 

 いつ帰って来るのかわからない人を待つというのは辛いものですね。しかし、いくら遅くなっても、待つ相手が必ず帰って来ると信じていれば、相手との間に信頼関係がしっかりと築かれているなら、信じて待つことができるのではないでしょうか。  

 イエスさまは、目をさまして準備して、主人の帰りを待っているしもべは幸いだと言われるのです。 それに続けて、37節

 

 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

 

主人の帰りを忠実に待つしもべに対して、主人の方が、彼らに食事の用意をして給仕してくれる。主人がしもべに仕えてくれるというのです。 普通ではあり得ないことです。主人の帰りを待って、帰ってきたら言われたとおりに準備をしたり、整えたりするのが、しもべのなすべきことでしょう。それが当たり前のこと!

 しかし、イエスさまが再臨されたときは、私たちに対してそうしてくださる、と言うのです。 その予表として、12弟子たちとの最後の食事をされたとき、それをしてくださいました。イエスさまは上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を一人一人洗われました。そのイエスさまが、再び来てくださったときに、私たちに対しても同じことをしてくださると言うのです。 それが天国の現実なのです。 そのことが本当にわかっていれば、私たちはイエスさまの再臨を本気で待ち望まないことはあり得ないでしょう。

 それまで目をさまして、忠実に準備をして待ち望みましょう。どんなふうにしていったらいいのですか? ヨハネの手紙第一2:28です。

 

 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

 

「キリストのうちにとどまっていなさい」キリストと結びついていなさい、ということ! 

具体的には、私たちの教会の指針となっている3つの御言葉の一つ第一テサロニケ5:16-18 「喜び、祈り、感謝」のうちの17節

 

 絶えず祈りなさい。

 

この御言葉はいつもお語りしているように、いつも、どんなときにも、神様に心向けて過ごす、ということです。 そして実際に語りかけるのです。朝起きたら「神さま、イエスさま、おはようございます、今日も一日ご一緒してください」「今日は朝から寒いですね」・・・また、ちょっとしたことでも、仕事、勉強、家事、人との付き合い、どんなことでも、「神さま、これはどうしたらいいんでしょうか」と語りかけ、神さまから知恵と力を頂きながら過ごしていくのです。 祈りは神さまとの会話なのです! 時には、必死で願うこともあるでしょう。でも、それだけが祈りではないということをぜひ知っておいていただきたい。 

 

この、いつも神さまとつながっていることこそが、主の再臨を待つ忠実で賢いしもべなのです! 聖霊の助けを頂きながら、そいう歩みをさせて頂きましょう!

 
 

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