2024/3/10 ルカの福音書4章14~21節
(1)みことばは聖霊によって
前回、ルカ4章の1節からイエスさまの公生涯がスタートした、という内容を見ました。1節「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。」そして、悪魔の試みに会われ、それをすべてみ言葉によって退けました。大切なのは、「聖霊に満ちたイエス」という表現です。 聖霊に満たされていたから、みことばをもって悪魔に打ち勝つことができたのです。ただ聖書知識があるから、聖書をよく知っているからではなく、どんな時に、どのみことばを用いればよいのか、聖霊の働き、助けがなければ、相応しいみことばを語ったり、用いたりすることはできないのです。イエスさまが力あるわざ、大切なことをされるときは、多くの場合、祈って、聖霊に満たされてなさっておられたことを、私たちは模範としたいと思います。
今日の箇所も「イエスは御霊の力を帯びて」とあります。そして「すると、その評判が回り一帯に、くまなく広がった。」とありますが、どんな評判が広がったのでしょう? この箇所だけを見ると、それはわかりませんが、マタイ4:23-24には「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた」ので、その評判が広まったのです。
(2)全能の神とお会いする礼拝
その後、イエスさまはご自分の生まれ故郷に帰って「いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」とあります。「いつものように」との表現から、イエスさまは礼拝を重んじていたことがわかります。当時の宗教指導者たちも安息日の礼拝を守ってはいましたが、イエスさまは彼らのことを次のように言っています。マタイ23:2-3「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」このイエスさまの言葉は、礼拝に対する私たちの姿勢が正される内容ではないでしょうか。牧師の私自身に向けられている警告のようにも受け取れます。 当時の人々の礼拝は、形は整っていても、そこに心から神様をあがめ、神様との深い交わりを通して、神様の語りかけを頂いて、日々歩んでいくというものにはなっていなかったのです。 「だからだめなんだ」と言って、彼らを批判しても何の意味もありません。 私たちの礼拝に対する姿勢はどうであろうか? と省みる必要があるのです。
礼拝とは、何よりも神様とお会いすること! この世界をお造りになった、創造主、全能の神が私たちに会ってくださるのです。何という光栄なことでしょうか。王の王、主の主に招かれて神の家に行って、直接お会いすることができる。私たちは礼拝において、この神様が私たちに会ってくださるということを、どれだけ素晴らしいこと、貴重な時間であると受け止めているでしょうか? そういう思いで礼拝に臨まなければ、心からの感動は湧き上がってこないのではないでしょうか。
(3)貧しい者とは?
イエスさまは「いつものとおり安息日に会堂に入り」そこで「預言者イザヤの書が手渡され」たので、 18-19節「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」と読まれたのです。これはイザヤ書61:1-2であり、メシヤ預言と呼ばれるもので、やがて救い主が来られるという預言!ここで語られている救い主は、貧しい人々の救い主であり、捕らわれ人を赦免し、盲目の人の目をあけ、しいたげられている人々に自由を与えるお方として現されています。そのようなことが実現したら、当事者は喜び、感激するでしょう。まさに福音なわけです。 しかし、それは、この世にあっての喜び、希望であって、永遠に続くものではありません。
この箇所は、霊的に解釈する必要があるのです。貧しい人々を具体的に示したのが、次に出てくる3種類の人なのです。①「捕らわれ人」 この世の何かにとらわれている人たちで、お金や物や名誉や地位にとらわれているだけではなく、どうしても赦すことのできない人がいて、その人への憎しみや恨みにとらわれている人たちのことです。②「盲人」 この世のこと、現象として現れることについてはよくわかり、見えるけれども、目に見えない霊的世界、神の救いや永遠の命、祝福については見えない人たち。③「しいたげられている人々」 ほとんどの人が何らかの形で心に傷を持っているでしょう。その心の傷がいやされ、解放され、自由にされなければならない人たち。 このような人を誰であるとお思いでしょうか? それを自分だと受け取ることのできない人は、礼拝において「今日の説教はあの人に聞かせたかった」などと思ってしまう人なのです。 それは自分のことであると受け取らなければ、神様の素晴らしい恵みにあずかることはできないのです。
イエスさまはこのイザヤ61章の預言が「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われました。つまり、ご自分によって成就したのだとおっしゃったのです。 十字架にかかり、私たちすべての者の罪を背負って、身代わりとなって死んで下さった事により、私たちの罪を赦し、解放し、自由にしてくださったのです。
礼拝において聞いた神の言葉、それは私に語られているのだと受け止めなければ、神様とお会いしている礼拝とは言えません。 ですから、「貧しい人々、捕らわれ人、盲人、しいたげられている人々」を「だれかほかの人」と思うのではなく、私こそ、それら霊的に欠けのある者にすぎないのだと受け止めること、それこそが主の素晴らしい祝福と恵みにあずかるのに必要な姿勢なのです!
御霊の助けを頂いて、謙遜に神様の前に出て、神様からしか頂くことのできない、恵みと祝福、希望と平安を豊かに注いで頂いて、感謝と喜びをもって歩んでいきましょう。
第一ペテロ5:5「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからである」