2024.10.6 ルカの福音書7章36-50節
(1)罪深い女
今日の聖書箇所は、「罪」というものについて、私たちはどう考えるべきかを示している内容です。 まず、ルカの福音書7章36~38節までを見てみましょう。
さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスさまが食事に招かれて食卓に着いた時、突然、招かれた訳でもないのに、ひとりの「罪深い女」が入ってきました。どういう罪を犯して「罪深い女」と呼ばれたのか分かりませんが、この人は町中の誰もが知っている「罪深い女」だったのです。 そして、この女性が「香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」のです。 「罪深い女」であるこの女性は、自らも罪深い女と思っていた。そして、罪の生活を惰性で続けていた、そんな時、イエスさまの噂を耳にしたのでしょう。イエスという方は、みんなから嫌われ、さげすまれていた取税人や罪人の所に行って、優しく接し、愛を注ぎ、あわれみを示されるお方だ。また、病人をいやし、盲人の目を開かれるお方、そんな噂を耳にしていたでありましょう。「私のような罪ある女、でも、このお方ならば、こんな私でも、受け入れ、赦し、あわれんでくださるのではないか!」そう思って、イエスさまの所に近づいて行ったのです。「イエスさまに会いたい、イエスさまの所に行きたい」という思いで、まさに、居ても立ってもいられなくなって、香油の入った石膏のつぼを抱えて、走り出し、「泣きながら」入って来たのでしょう。
恐らく、彼女はイエスさまの所に来る途中で、「あのお方は、罪ある女の私を、受け入れ、赦してくださるに違いない、必ずそうしてくださる」との信仰が与えられたのです。なぜなら、50節で、イエスさまご自身がこの女性に向かって
「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
と語っているからです。 そういうことを理解すると、彼女の涙の意味も分かって来ると思います。 初めは、自分の罪深さに泣き、やがて愛とあわれみに満ちた方、イエスさまは、私のような罪深い女であっても、受け入れ、赦してくださるに違いない! そのことへの感謝と感動、喜びの涙に変わっていったのでしょう。 だから、ほかの人が見ていようが、何と思おうが構わない。もうイエスさましか見ていない、見えない、ほかの誰も目に入らない、恥も外聞もなく、今、自分ができる精一杯のことを主にしたのです。 それが、「涙で主の御足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗る」彼女のイエスさまに対する愛の表しかただったのです。
(2)500デナリと50デナリ
しかし、そんな彼女を冷たい目で見ている人物がいました。それが、この家の主人、パリサイ人シモンでした。 彼は、イエスさまからいろいろな話、教えを聞きたいと思っていたのでしょう。 しかし、この罪深い女の行いを、なすがままにさせておられるイエスさまに対して、思いが変わってきました。 彼は心の中でこんなことを思うのです。 ルカ7:39
「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」
するとイエスさまは、彼に対して 40節
「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
そしてイエスさまは、一つのたとえ話をするのです。41~42節
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
ひとりは大きな負債、もう一人はわずかな負債、という対比を明確にしている訳ですね。では、赦してもらった二人のうち、どちらが金貸しを愛するようになるか、大きな喜びをもって感謝するか、とシモンに質問したのです。 誰もがシモンと同じ答えをすると思います。 43節
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。
大きな負債を免除してもらった嬉しさ、重荷からの解放感、感謝。それはどんなに大きな喜びであるか、経験した人ならお分かりになるでしょう。
(3)自分の罪がわからない
シモンは当然の答えをしますが、イエスさまが言わんとしていることはわかりませんでした。ですので、イエスさまは、はっきりと彼に語るのです。 44節
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。」
もちろん、シモンはずっと彼女を見ていました。自分の家に入って来て、罪深い女であるにもかかわらず、勝手なことをして、なんて奴なんだ、と思っていたことでしょう。 しかし、ここでイエスさまがシモンに言った意味は、そういう目で見るのではなく、視点を変えて見るべきだ、ということなのです。どういうことか? 44-46で語っていることを要約すると、私を招いた家の主人であるあなたは、客をもてなす礼儀をまったくしなかった。しかし、この女性は、私に対して出来得る最大限の礼を尽くしてくれた。それはこの女性が、自分の罪深さと、その罪が赦されたことに対する感謝と愛の現れなのだ!
あなたは、たとえ話を聞きながら、500デナリもの莫大な借金を赦してもらったのは、この罪深い女の方であり、自分はわずか50デナリの借金しかしていない方だ、この女の方が、私よりもずーと罪深い、私はこの女と比べたら、ホンのわずか、いや、神の前に正しい者だ、と思っていたのであろう。
自分の罪が見えない、わからない人には、罪の赦しも分からない!
自分の罪がわかれば、人と比べたり、人を裁いたりなどしない、できないのです。神の赦しみ言葉に、耳を傾け、罪の赦しを体験するならば、ほかの誰かが何と言おうと、そんな事にはお構いなく、ひたすら自分の出来る方法で、主への愛を表していくのです。この女性はそうでした。残念ながら、シモンはそれが出来ませんでした。彼は自分の罪深さがわかっていなかったのです。
信仰とは、神と自分との関係です。人の目や言葉に惑わされる必要はないのです。
今日は、47節がカギの聖句です。
「わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
お間違えの無いように! 多くの罪を犯して、それが全部赦されたから、だから主に対する愛を大きく表すことができる、ということではありません。そういうこともあるでしょうが、自分が神の前にどんなに罪深い者であるかを自覚しているか否か、ここが最も重要なことなのです。
みなさんはどれほど、自分の罪深さを自覚しているでしょうか?
神の前に、罪の大小はないのです。私たちはすべての者が罪人なのです。その罪がすべて赦されるということは、あり得ないのです!どんなに頑張っても、いくら善行を積んでも、赦されないのです。だから徹底して、イエス・キリストの前に自分の罪を言い表し、くずおれて、泣きぬれて、悔い改めて、キリストに罪の赦しを願うのです。そうする時に、この女性に語ったと同じ言葉をイエスさまはかけてくださるのです。『あなたの多くの罪は赦されている』と。
心からこの主イエスを愛し、従って歩んで行きましょう。