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罪人を招くために

2024.6.16 ルカの福音書5章27-32節

 

(1)  目を留め、声をかけられた

 今日の聖書箇所ルカ5:27-28を見ましょう。「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」とあります。地理的には、ガリラヤ湖の北の湖畔のカペナウムという町での出来事です。ここは、物資の流通経路として重要な所でした。そこにローマは収税所を置いて、通過する人や物に税をかけて徴収していたのです。その最前線で仕事をしていたのが取税人レビでした。当時のユダヤはローマ帝国の属国だったので、税をローマに納めなくてはならなりませんでした。 ユダヤ人にとっては異邦人の支配下にあるだけで、屈辱的なことなのに、その手先の取税人として働いているユダヤ人などは、ユダヤ人とは認めない、罪人だ!という考え方だったのです。 レビは、ユダヤ人社会から仲間外れにされても構わない、それを承知の上で、まさに一大決心をして、取税人になったのでしょう。 そういう思いを心の中に持って、仕事をしている時に、イエスさまがレビに「目を留め」られたのです! この「目を留める」という言葉は、チラっと見る、と言うことではなく、「じっと見つめる」と言う意味! 

 恐らくレビは、この時初めてイエスさまと出会ったのではないのでしょう。「イエスの評判はガリラヤ全地の至る所に広まっていた。」とありますから、レビもどこかで、イエスさまの話を、あるいは奇跡的な働きを聞いたり見たりしていたでしょう。その中で、彼は自分の今の立場を省みて、こういうお方から、本当の慰めを頂きたい。人々から愛されていない自分に、このお方が、優しさを、愛を注いでくださったら、何とありがたい事だろう、と思いつつその場を離れて行ったのではないでしょうか。

 しかし、今、そのお方が私をじっと見つめてくださっている。その目は、これまで自分を見る大勢の人の目とは全く違っていた! 今まで、自分を見る目は、軽蔑か裁きの意味が込められていた。でも、イエスさまの目は、本当のいつくしみが宿っていた! 愛の眼差しをもって、自分の心の奥底まで、見通しておられるように、じっと見つめておられ、さらに「わたしについて来なさい」と語りかけてくださったのです。この真実な愛と権威に満ちた言葉の前に彼は、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」のです。 ここに単純ですが、基本的で重要な信仰についての姿勢が現れています。信仰とは、ついて行くこと。語られたことに「はい」と言って従うことなのです! 誰に従って行くのですか?  私たちのために十字架に架かって、命を捨ててまで、愛を示してくださったイエスさまだからこそ、信じ、従っていけるのです! このお方の「わたしについて来なさい」との呼びかけに、喜んで、感謝して従い、ついて行きたいものです。 

 

(2)パリサイ人・律法学者の批判  

 自分のような者に声をかけ、働きを与えてくださったイエスさまへの感謝と、自分のこれからの歩みを大勢の人に知らせるために、29節「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」 盛大な宴会を催したということです。レビがどんなに喜び、感謝したかがわかります。

 しかし、その光景を冷ややかな目で見ている者たちがいました。30節「すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。』」 パリサイ人とは、ユダヤ人の中でも旧約聖書の律法を良心的に守ろうという生き方をしていた人たちだったのです。 ところが、だんだんと彼らは旧約聖書の律法だけでなく、彼らの律法解釈に基づいた伝承も律法として、それに従うことをも主張したのです。ですから、多くの場合、神の律法本来の精神を踏み外し、偽善に陥ってしまったのです。なので、イエスさまはマタイ23章で「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」と繰り返し彼らを指摘するのです。彼らは、聖いものと汚れたものの分離を重視していましたから、イエスさまが汚れた取税人たちと一緒に食事をするのを批判したのです。リビングバイブルでは「おまえさんたちは、どうして、こんなくずのような連中と一緒に食事をするんだい」と記すのです。

 

(3)罪人を招くため

 彼らに対してイエスさまは、こう言われました。31-32節「そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」 確かに自分は健康だと思っている人は、たとえ病を抱えていても医者には行きません。これを心の問題として捉えると、自分は正しいと考え、安心している人は、誰かの助け、ましてや救いが必要とは思わないでしょう。しかし、自分はとても正しい人間だなんて思えない、自分で自分を正しい者にできない罪人なのだ、と自覚している人は、救い主を求めるでしょう。イエスさまは、そういう人を招いて悔い改めさせるために、神であるのに人となって、この世に来てくださったのだ、と言われたのです。

 しかし、イエスさまはパリサイ人や律法学者を切り捨てるのではなく、彼らに対しても語りかけておられるのです。自分を正しいと考え、自分は霊的に健康だ、などと考えているあなた方には、本当は、自分が霊的に病んでおり、罪人だということがわからないのですか。そのあなた方のためにも、わたしは来たのだ、という気持ちが込められているのです。 イエスさまはいつも反逆する者たちの心にも、愛の訴えをしておられるのです。

 私たちも、知らず知らずのうちに、パリサイ人や律法学者と同じように、自分を正しい者、神の子とされた者として誇り、周りの方を見下したりしてはいないでしょうか?  私たちは、ほかの人のことはいろいろと目につきますが、自分自身のことについては、あまり気が付かないのでは? それこそが霊的な病人であり、罪人の姿なのだということを、聖霊の光によって照らし続けて頂きたいと思います。

罪、過ちを示されたら、そのままにしておかないで、悔い改めるべきことははっきりと悔い改め、神の赦しを頂いて歩んで行きましょう。

 イエスさまは「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」から!

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