2024.8.18 テサロニケ人への手紙第一2章13-20節
(1)真理としての神のことば
パウロはこの手紙の初めから、テサロニケの人たちを「すべての信者の模範になった」と最大級の賛辞を送っています。そして、今日の箇所も同様に、最後の20節で「あなたがたは私たちの誉れ、喜びなのです。」と称賛の言葉を送るのです。何がそれほどまでにパウロを喜ばせたのか? それが今日のテーマです。 まず13節を見てみましょう。
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
パウロは1章5節で、「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったのです。」と言いました。ここでも同じことが語られています。ここで「事実どおりに神のことばとして」とありますが、「真理である、神のことばとして」と言うことができます。 真理のことばとして受け入れたというのです。 人間のことばのように「こうではないか」「ああではないか」という推測や曖昧な「こうであろう」という意見でもなく、真理として、まさに神ご自身のことばとして受け入れたということです。
聖書の中には、神のことばが、とこしえまで変わることなく、必ず成就することがいたるところに書かれています。たとえばイザヤ書55章10-11節にはこうあります。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出る
わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
神のことばは、これほどに確かなのです。
しかしながら、人間のことばには、このような力はなく、このように言い切れる人もいないのではないでしょうか!
ですから、テサロニケの人たちが、神のことばとしてパウロが語った福音―神の言葉―を受け入れたときに、そのことばが生きて、彼らのうちで働いたのです。
(2)苦しみの中で働く神のことば
「神のことばが生きて、あなたがたのうちに、また、私たちのうちに働く」とはどういうことなのでしょうか? 14節にはこうあります。
兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
1章6節でパウロは、テサロニケの人たちが、「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」と言いましたが、テサロニケの人たちは、みことばを受け入れたために、同胞の民からいやがらせ、反対、迫害を受けていました。パウロは今、その彼らを励ましているのですが、初めに苦しみを受けたユダヤ地方にいる兄弟たちのことを話しています。 例えば、エルサレムにある教会では、ステパノが初めに殉教者となりました。信仰を明確にして、クリスチャンとして、神を第一として歩んでいけば、必ず苦難、迫害、試練に遭う、と前回もお語りし、聖書からそのことを見ました。なぜなのでしょう? それは、その試練の中で、神様に必死で助けを求め、頼り、祈ることによって、聖霊が御言葉を通して助け、励まし、慰め、力を与え、乗り越えさせてくださる! それを、まさにその「経験」をさせて下さることによって、「ああ、神の言葉は、私のうちに生きて働かれた」と、信仰の体験をもって語ることができるのです。
みなさんは、三重苦を克服して人々に希望を与え続けた奇跡の人、ヘレン・ケラーをご存知でしょう。野獣のような女の子であったヘレンが変えられたのは、サリバン先生の存在があったからです。そのサリバン先生も、子どもの頃に重い精神障害者の施設に入っており、だれにも心を開かず、ついには地下の独房に移されてしまったのです。しかし、ひとりのクリスチャン女性が2年間、毎日、愛と忍耐の働きかけを続けた事によって、心を開き、普通の生活に戻ることができたのです。やがて彼女も、同じように、苦しんでいる人たちのために生きたいと思うようになったのです。
みなさん! 神様は、自分の心を閉ざして、牢獄で閉じこもるような生活を送っておられる方にも、その中にも光を当ててくださるお方です。神様は砕かれた、ぺしゃんこになった者を、そこから立ち上がらせて、用いることが出来るお方なのです。 オリーブの実のように、(オリーブ油として用いるために)砕かれてもう使い物にならないのでは、と思われる者にこそ、お声をかけて、用いなさるのです!
(3)絶えず神に感謝して生きる
19-20節で、パウロのテサロニケの人たちへの最大級の称賛の言葉が見られます。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは
だれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、
また喜びなのです。
パウロは、テサロニケの人たちが自分たちの冠だと言っています。これは、自分たちが苦闘の中で宣べ伝えた福音のことばによって、テサロニケの人たちが信仰を持ち、愛と希望に満たされて生きていたからです。彼らは大変苦労しましたが、テサロニケの人たちのことを見ると、主が自分たちの労苦に豊かに報いてくださっている、という慰めが与えられたのです。それゆえ、パウロは、彼らのことが嬉しくもあり、誇りであったのです。
このことは、まさにみことばを語る者の共通の思いなのです。信仰は持ったけれど、現状はつらく、困難な生活は一向に変わらない、そういう人を見ると、牧師としては本当に辛い! しかし、そんな中にあっても、苦難の生活をしていても、イエスさまを見上げて、喜び、感謝している姿を見ると、牧師は励まされ、そういう人の存在が、牧者の喜びでもあり、誇りでもあるのです。
私たちは、永遠のいのちが与えられ、この希望は失望に終わることがない、という神の約束を信じているからこそ、たとえどんな苦難の中でも、どんな試練の中でも「絶えず神に感謝している」者として、日々、歩んでいくことができるのです。