私たちのために祈ってください
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 5月4日
- 読了時間: 7分
2025.5.4 テサロニケ人への手紙第二 3章1~5節
(1)祈ってください
まず、今日の聖書箇所、3章1節を開きましょう。
終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。
パウロは、手紙の最後に、自分たちのために、祈って欲しいと祈りの要請をしています。
ここだけではなく、彼は各地の教会に宛てた手紙の中で、繰り返し「私のために祈って欲しい」と書いています。 ローマ人への手紙15章30節
・・・切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。
エペソへの手紙6章19節
福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
コロサイへの手紙4章3節
私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。
テサロニケ人への手紙第一5章25節
兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。
パウロは神に召された、使徒、伝道者、教師でした。そして、その働きを進めていくためには、多くの苦難、困難があることを知っていました。だからこそ、自らも祈ってはいくけれども、「私のために」「私の働きのために」祈って欲しいと書き送ったのです。
今日の聖書箇所では、具体的に、2つの課題のために祈って欲しいと記しています。3章1-2節
主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。
また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。
一つは、「主のみことばが、早く広まり、またあがめられますように」ということ。福音宣教が前進し、語られたみ言葉を通して、その御言葉の権威によって、主が崇められるように、祈って欲しいと。 これは、時代を問わず、地域を問わず、御言葉を語る者であれば誰もが常に願っていることです。
二つ目に自分と同労者の身の安全が守られるように、ということ。パウロは実際に各地で伝道を続けていく中で、投獄されたことも多く、何度も死に直面したとあります。第2コリント11:23
私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
いのちの危険からも守られるように、との祈りも要請しています。切実な内容ですね! いかがでしょうか、みなさん!「私のために祈ってください。」とお願いできる、祈りの友がいますか? 心許せる、何でも話し、深い祈りの要請ができる祈りの友を持っていますでしょうか? でも、今、そういう人がいなくても、心配しないでください。牧師はいつでも、祈りの友として、みなさんのために祈っています。 また、特に祈って欲しいことがあったら、ぜひ、祈りのリクエストをしてください。祈るべき課題を教えてください。周りに人がいると話しずらいという方、メモに書いて渡してくださっても、献金箱の中に入れてくださってもかまいません。 一生懸命祈らさせて頂きます。しかし、何より、あなたのことを一番よくご存知のイエスさまが、あなたのために祈っておられる、という事を忘れないで頂きたいと思います。
(2)弱いからこそ
「祈って欲しい」と誰かにお願いする場合、その内容は、多くの場合「自分の抱えているさまざまな弱さ」のためと言ってもよいでしょう。世の中では、出来るだけ弱みを見せない、自分を実際以上に大きく、強く見せる、また、かっこよく、美しく見せることに力を注ぎます。そうすることが、ある面、社会の中で、うまくやっていく、成功の秘訣のように考えられています。
しかし、信仰の世界は全く逆で、私たちは、自分の弱さ、ダメさ加減を徹底的に知らされる経験が、非常に重要なのです! 何よりも、自分の罪深さを知る、という事が信仰の出発点と言っても過言ではありません。
ペテロは12弟子の中でも、自他ともに認めるリーダーでした。彼には、自分がリーダーとしての自負、プライド、自信があったのです。 だからこそ、イエスさまが、これから苦しみを受け、十字架に架けられて殺され、三日目によみがえる、と弟子たちに語った時、なんと、イエスさまをいさめて「そんなことがあるわけありません」などと言ってしまったり、さらに、イエスさまが捕えられる前、ゲツセマネに行く途中に、弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます」と言ったその時、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」さらに、マルコ14:31
ペテロは力を込めて言い張った。「たといごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
などと、大見得を切ります。しかし、彼は、ご存じのように、3度も主を知らない、と言ってしまうのです。 自分は大丈夫、自分こそは、弟子の筆頭との自負! しかし、その肩書も、自信も、プライドも、ペシャンコにされてしまうのです。
このことによって、彼は自分の弱さ、罪深さを徹底的に知らされるのです! もう自分は、主の弟子とは言えない、ガリラヤの漁師に戻ろうか、とさえ思った時に、主からのお声がかかったのです。「わたしを愛するか?」「わたしの羊を飼いなさい」と再召命を頂いたのです。
神様は、自分の弱さ、汚れ、罪深さを徹底的に思い知らされた者を用いられるのです! パウロも弱さのうちに神の力が働かれる、との御言葉を頂きました。2コリント12:9-10
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
私は今日、皆さんに、自分の弱さを告白し、今まで以上に「私のために祈ってください」と言おうと思って、ここに立っています。 今日のメッセージは、私のために与えられたものであろうと思わされています。
いつも皆さんに、御言葉の前に謙遜さをもって歩みましょう、と語って来ました。 しかし、私は、謙遜どころか、「自分は大丈夫」という思いを、無意識のうちに持ってしまっていたな、と思わされたのです! 神さまは具体的なことを通して、そのことを教えてくださいました。 何かというと「物忘れが激しくなった」ということ! 「なんだ、そんなこと誰にでもあるでしょう。特に、歳をとればみんなそうなって行きますよ」と言うでしょう。 確かにそうなんです。たわいもない物忘れならば、笑って過ごせるのですが、けれども、その忘れが、教会の働きに関すること、伝道、牧会に関わる事となると、非常に大きなストレスを受けてしまうのです。
毎週、早朝礼拝のために、教会に来ると、まず、PCとモニターをつなぎます。今使っているPCは少し古くなっていて、内臓バッテリーだけだと15分くらいしか持たないので。電源コードを使わないとダメなのです。先週はその電源コードを自宅に忘れてしまったので、急いで取りに帰りました。でも、ない! 電話でカバンをよく見てもらったら、なんと入っていたのです。いつもと反対側のポケットに。
もう一つ、BBQ親睦会の時、車から荷物をおろして、中に入って食材などいろいろな準備を始めました。しばらくしてから、娘の家族がやって来て、私の車のエンジンがかかっていたので切ってきた、と言うのです。ビックリ!初めてのこと! 気が付いてもらわなかったら、どうなっていたことか!
また、車のキーを紛失してしまい、大慌てで探し回っても見つからずに、諦めかけた時に、やっと見つけることができたり。 これは、みんなこの1週間の出来事なのです!
こんな、危なっかしい牧師ですが、そして、こんな弱さと欠けだらけの牧師ですので、どうぞ、「私のために祈ってください」
(3)「真実な方」
もう1つのメッセージは「真実な方」と言うこと。3節
しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。
私たちが祈るお方は「真実な方」であるということ。第二2テモテ2:13
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。
「真実な神」同じ言葉が、申命記7:9では「誠実な神」新共同訳では「信頼すべき神」。リビングバイブルでは
「たとい、信仰をなくしたかと思えるほど、私たちが弱くなっても、キリスト様は真実を貫き、私たちを助けてくださいます。そして、主はいつも約束をはたしてくださいます。」
たとえ、信仰をなくしたかと思えるほど、私たちが弱くなっても、裏切っても、約束を破っても、そのように私たちが不真実な態度をとっても、私たちの弱さ、罪のために十字架に架かってくださったイエス・キリスト様は、真実を貫き、こんな私たちを見捨てることをせず、どこまでも、私たちを助けてくださるのです。 主は語られた通りに、約束を果してくださる、「真実なお方なのです。」
お互いに、この真実なお方に祈り、そして、祈られていることを感謝して歩んで行きましょう。