2024.7.21 ルカの福音書6章12-16節
(1)祈り、12弟子を選ぶ
今日の箇所はイエスの祈りから始まります。12-13節
このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
このイエスの祈りは明確な目的がありました。その選びの目的は、マルコの福音書3章14-15節にはっきりと記されています。
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
第一は彼らを身近に置き、生活すべてを共にして、学ばせるため。第二は福音を宣べさせ、やがてイエスが復活された後、この使徒たちによって福音を伝えさせるため。第三は悪霊を追い出す権威を持たせるため。これは悪霊によって、罪に縛られている者を解放する力、権威を与えるために選んだ、と言うのです。 そう考えてくると、普通、選ぶべき人は、学ぶ姿勢が前向きな者、素直で従順な者、人が嫌がることをする者、賢くて人格的にもに優れている者、と考えるでしょう。ところが、なのです! 「イエスさま!夜を徹して祈って、選んだのがこの人たちですか!こんなメンバーに大切な使命と働きを任せて大丈夫なんですか?」と言いたくなるような人たちばかりだったのです!14節から12人の名前が列挙されています。どんな人物だったのでしょう。
すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
(2)考える前に行動するペテロ
まず最もよく出てくるのはペテロです。彼の名はシモンでしたが、イエスさまによってペテロと名付けられました。それは岩と言う意味。イエスさまはペテロの岩のような頑固さ、「自分が自分が」という思いの強さを見抜いて、ペテロと呼んだのでしょう。彼の歩みは失敗の連続でしたが、一度だけイエスさまからほめられたことがありました。イエスさまのことを「あなたは、生ける神の御子キリストです。」との言葉を聞かれたとき、イエスさまは大変お喜びになったようです。 けれどもすぐ後で「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」と強烈に叱責されるのです。彼が何か話す時にはほとんどが失敗につながってしまうのです。直情径行で行動的、考えるより先に行動に出てしまう、という性格なのです。また、イエスさまを捕らえに来た者たちの一人の右耳を、剣で切り落としてしまうようなことも瞬間的にしてしまうのです。そして、彼の最大の失敗は、捕らえられたイエスさまが心配で後について行った時に、「あなたもイエスの仲間でしょう」と言われ、それを2度も3度も強力に否定してしまったことです。そのような弱く、臆病な者のペテロが選ばれた! 全く常識では理解できない、いや常識を超えたキリストの選びの不思議さを思わされるのです。彼は最後の、3度もイエスさまを否んだ大失敗において、自分ほどダメな者はいないと思い知らされたのです。 この事は彼の生涯の中で忘れられない出来事となりました。自分が思い上がって、得意満面、高慢になりそうなとき、いつも謙遜にならせてくれる出来事となったのです。
(3)素直で単純なアンデレ
ペテロの兄弟アンデレについて特筆すべきは、ペテロをイエスさまの所に連れて行った、ペテロをイエスさまとつないだということ! それがあったからこそ、ペテロは大きな働きをすることになったのです。また、5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させたイエスさまの奇跡、そのパンと魚を持っていた少年をイエスさまの所に連れて来たのもアンデレだったのです。彼はその後、驚くべきことが起こるとは、思っていませんでした。ただ、人をイエスさまの所に連れて行く、自分で結果を判断しないで、示されたことに素直に行う人でした。まさに彼は、子どものような素直さ、単純さを持った人物だったのです。 自分で判断しない、できない。だからイエスさまの所に持っていく。普通に考えれば、自分で決断できない、未熟な人間と思われそうですが、信仰の世界ではそうではないのです。自分で考えて結論を出すのでなく、何でもイエスさまに話す、イエスさまの所に持っていく。自分には能力がない、力がない、と自覚している人ほど、それが可能なんです。アンデレはそれを代表するような人なのです。なんでもイエスさまに話し、お頼りするしかない、それがいいんです!
(4)その他の弟子たち
もう少しだけ見ましょう。ヤコブとヨハネ、この兄弟はボアネルゲ=雷の子、とイエスさまは名をつけられました。すぐにかっとなる性格! サマリア人がイエスさまを受け入れなかったときに、「主よ、天から火を下して滅ぼしましょうか」と言ったり、イエスさまの名を使って悪霊を追い出しているグループに対して、けしからんと言ってやめさせたりとか、とにかくその言動が激しい! そうかと思えば、イエスさまに「あなたが栄光の座に着く時には私たちを右、左に座らせてください」などと、他の弟子に先んじて、最高の地位を約束してもらおうとする自己中心の塊のような兄弟でした。 しかし、ヤコブは12人の中で最初の殉教者となります。そして、ヨハネは福音書と3通の手紙を書き残し、愛の人と尊敬されるようになるのです。彼らのまっすぐな性格が聖霊によって、熱心に福音を伝える者、愛を説き続ける者に変えられたのです。
マタイは取税人で当時は最も嫌われていた者 軽蔑されていた者でした。
トマスはイエスさまの復活を、自分の目で見なければ信じない、と言い張る疑い深い者でした。
そして、イスカリオテ・ユダは、頭が切れる、綿密で理性的、しかし、自分のありのままを現さない、 仲間と親しく交わらない人物でした。そして、とうとう裏切りを実行しようとする頑な心に、イエスさま何度も悔い改めの機会を与えたのに、罪につき進んでしまったのです!
(5)神の選ぶ基準
徹夜で祈って選んだ12人は、こんな情けない、自分勝手な、素直に悔い改めることをしない、弱い、罪人たちだったのです。本当に不思議ですね。 でも聖書は、その答えを明確に記しています。コリント人への手紙第一1章26-29節
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわり、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
・・・12人は私たちを代表する12人と言っていいでしょう。誰かしらが、あるいは何人かが自分に当てはまるでしょう。 教会にはこの12人のように様々な人たちが集められているのです。 目立つ人も目立たない人も、積極的な人も消極的な人も、おしゃべりな人も無口な人も、すべての人は神が選んでここに置いてくださっているのです! そこに神の恵みが豊かに注がれ、主の導きの中で、キリストの愛が実現していく教会、クリスチャンとなっていくのです!