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神の言葉を守る幸い

今週の講壇 2025,8,3 ルカの福音書11章27-28節

 

 

 今日の聖書箇所は、イエスさまが群衆に語っているときに、突然一人の女性が声を張り上げて、イエスさまに向かって言った言葉から始まります。27節

 

 「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」

 

現代訳聖書では、こう訳しています。

 

「あなたを産み、あなたを育てたお母さんは、なんと幸いなことでしょう。」

 

おそらく、この女性も母親であったのでしょう。そして、イエスさまが素晴らしい働きをし、人々から尊敬され、慕われている姿を見て、こんなに立派な人物に育てた母親はなんと素晴らしく、また、幸せなのでしょう! との思いがあふれて、声を張り上げて、イエスさまに向かって言ったのです。

 でも、恐らく素晴らしい母親だ、と思うと同時に、うらやましいとの思い、妬ましいという思いも含まれていたのではないでしょうか。

 

 親にとって、わが子が立派に育ってくれることは、何にも増して嬉しいこと。・・・しかし、何をもって「立派」と言うのかが、大きな問題でしょう。一生懸命勉強して、いい大学に入って、いい職場で、いい仕事をすること。それもある面、立派かもしれませんが、必ずしもそうではないでしょう。社会的に、地位や名声を得ることが「立派」なのでしょうか? へブル人への手紙11:6には、

 

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

 

とあります。ですから、「立派な子ども」とは、唯一人の、真の神様を信じる信仰を持つことが、何より立派に生きる第一歩であると思います。箴言1:7に

 

主を恐れることは知識の初めである。

 

とあります。 そう考えると、子どもを一人の信仰者として育てるには、親の祈りと信仰的な養育、子育てが不可欠でしょう。親のそうした働きかけがなければ、子どもが信仰を持つということは、難しいでしょう。 いつ、どこで、どういうときに信じるかは、聖霊の働きによるのですが、少なくとも、クリスチャンである親が、子どものために祈り、導くことは、親の大切な使命と言ってもいいのではないでしょうか。 

 

 この女性に対して、イエスさまは、こう答えられています。28節

 

「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

 

イエスさまの母マリヤが救い主の受胎告知を、み使いガブリエルから受けたとき、そんなことはあり得ないことだと、戸惑い、信じられないほどの驚きを覚えました。処女のまま、懐妊することなど、とても信じられない。 しかし、やがて、彼女は、その言葉を素直に信じたのです。み使いに対して、こう言うのです ルカ1:38

 

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

マリヤの、信じるがゆえの苦しみは、それだけではありませんでした。この出来事を、いいなずけの夫ヨセフに話したでしょう。ヨセフも、マリヤの話をそのまま信じることはできませんでした。 

 であるからこそ、彼は、悩み、苦しんだのです。そして、悲しみながら、結婚直前の彼女を去らせようとしたのです。 そういう中で、ヨセフにも夢の中で、主の使いが現れて、すべてのことは神の御業によるものであるとの御告げを受けて、信じ受け入れたのです。

 ヨセフもマリヤも、とても信じがたいことを、苦悩の末に信じ受け入れました。

 そして、語られたとおり、信じ受け入れたとおり、マリヤは神の御子、救い主を宿し、この世に送り出したのです。 28節のイエスさまの言葉を、原語に忠実に訳した、詳訳聖書ではこう表現します。

 

「祝福されているのは、むしろ、神の言葉を聞いて、それに従う<それを行う>人たちである。」

 

神の言葉を守る、と言うことは「神の言葉に従い」「神の言葉を行う」ことだ、と言っているのです。また、現代訳はこう訳しました。

 

「だれでも、神の言葉を聞いて、それを信じ続ける人は幸いです。」 

 

こうして見てくると、イエスさまの言わんとしていることが、より鮮明に浮き上がってきますね。「神さまに祝福されて、本当に幸いな人生を送るためには、神の言葉を信じ、従い、語られたとおりに行うことだ」とおっしゃっているのです。

神の言葉は救いの言葉です。ですから、この御言葉に徹底的に従っていったら、私たちがどんなに失敗や挫折をしても、もうどん底まで落ち込んでも、この御言葉によって、キリストは私たちを立ち上がらせ、引き上げて下さるのです! それが御言葉の力なのです。へブル4:12

 

「神のことばは生きていて、力があり、・・・」

 

なのです。 私たちが神のことばに100%頼って、従っていけば、どんな状況の中にあっても、私たちにとって、最善の道を神さまが用意をして、そこを歩ませてくださるのです。  

 

 しかし、神のことばをたくさん聞いてはいるけれど、そして、知ってはいるけれど、説明はできるけど、み言葉に従ってはいない! み言葉の語りかけを頂いているのに、語られた通りに行わないで、自分の思いで歩んでいく。「神のことばを聞いてそれを守る、従い、行う人」となっていない。 すると、どうなるのでしょう。 幸いな、喜びの実を刈り取ることはできないのです。 神の約束を自分のものにはできないのです!

 私たちがみ言葉を聞くとき、また読むときに、大切なのは、御霊の助けを祈りながら、聞き、読むということです。 そういう姿勢が、自らを謙遜な者へと変えていくのです。

 

 御言葉は、私たちの理性や常識を超えた、これまでの経験では受け入れられないことを語ります。 常識的に考えて、理解できて、経験に照らし合わせて、その上で受け入れられるものなら信じます、 などと言っていたら、一生み言葉を信じ、従っていくことはできません。当然、神の素晴らしい祝福に与かることはできないのです。

 

 私たちは、聖書の言葉を信じています。そして、この神の約束の言葉を信じて、祈り求めていきます。 しかし、いくら祈ってもなかなか神の答えが与えられないように感じることがあります。 

そういう時、祈ることをやめてしまおうか、と思うことがあるかもしれません。 しかし、信じ続け、祈り続けていく時、かなりたってから、その祈りが応えられる場合があります。その時の喜びは、たとえようもないほどの喜びなのです。その幸いは、体験した人にしかわからないものだと思います。

 

 私も自分の人生の大切な岐路に立った時、祈り、願いを神さまに訴えました。その時、神さまは聖書の言葉をもって語ってくださいました。当時使っていた口語訳聖書のピリピ人への手紙2:13

 

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

 

神の語りかけと信じて、受け入れて、困難と思われることはいろいろありましたが、神さまは、約束の言葉通り、願いを実現させてくださり、私の人生を祝福であふれさせてくださいました。

 神は真実なお方で、語られたことを信じて、受け入れて、歩んでいく時に、み言葉の約束を成就してくださることを体験させて頂きました。

 

 私たち信仰者にとって、み言葉の体験ということは、非常に重要なことだと思います。 それこそ、信仰を持っている者にしか味わえない、神の祝福の体験であると思います。

 私たちは、このみ言葉の体験の積み重ねを通して、成長していくのだと思います。 

 しかし、この御言葉の体験は、喜ばしいものばかりとは限りません。困難や苦悩、辛さや悲しみが伴うこともあります!  でも、信じ、従って、行なっていく時に、神さまは必ず、み言葉の約束を成就してくださいます!

 神の約束を頂いている者として、神のことばを信じ、従い、行なっていく者とさせて頂きましょう。

 
 

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