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神の祝福を受けよ

2026,7,19 へブル人への手紙7章1-10節    

 

 

 今日の聖書箇所に出てくるメルキゼデクという人物ほど、謎に満ちた存在はいないのではないでしょうか。 彼は創世記14章で突然現れるのです。この箇所から彼について見て行きましょう。

 アブラハムが神さまの導きによって、カルデヤのウルを出て、約束の地、乳と蜜の流れると言われるカナンの地に入ってきました。甥のロトも一緒に。 

 ところが、アブラハムの財産も、ロトの財産もあまりに多くなりすぎて、一緒に動くのは難しくなり、彼らは別れることになりました。まず、ロトにいいと思う方を選ばせ、アブラハムは彼と反対の方に行くことにしたのです。そして、ロトは死海の近くのソドムを選び、そこに住むことになったのです。 

 ところが、ある時ソドムに対して、周りの国々が連合して攻めてきて、ソドムの全財産と食糧全部を奪っていきました。ロトとその家族、全財産も! 

 その知らせを聞いたアブラハムは「甥のロトを助けねば」と仲間としもべたちと一緒に、敵を追跡し、なんと、奪われたもの、ロトとその家族、全財産を取り返したのです。

 戦いに勝利して、まさに凱旋将軍のように帰って来たアブラハムを迎えたのが、ソドムの王とメルキゼデクでした。 ここにメルキゼデクが登場するのです。創世記14:18~20

 

 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

 

彼は、シャレムの王と言われています。へブル書ではサレムの王。そして、より丁寧に「サレムの王、それは平和の王という意味である」とあります。

 シャレム、サレムは、今でいうシャロームです! このサレムはエルサレムを指しています。エルサレムの意味は平和の町、神の平和です。メルキゼデクはこのエルサレムの王であり、またその名は、義の王様という意味でもあるのです。

 さらにへブル7:3

 

 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

 

・・・いったい、どういう人物なのでしょう? みなさんの中に、父もなく、母もなく、なんという人、いないでしょう? すでに亡くなって、いないというのではないのです。

 ところが、メルキゼデクについては、聖書のどこを見ても、このへブル書以上に彼について詳しくは記されていないのです。 しかし、へブル書はメルキゼデクが、義の王であり、平和の王であると示すのです! その存在がいかにも神の子、イエスキリストに似ているということを私たちに印象付けようとしているのです。 

 アブラハムの生涯にとって、このメルキゼデクに出会ったことはとても大きな意味を持つのです! メルキゼデクはアブラハムを祝福して、宣言しました。 創世記14:19-20

 

 「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

 

この時、アブラハムは敵と戦って勝利して、意気揚々として帰ってきた凱旋将軍でした。ソドムの人びとは、彼を称賛の嵐の中で、出迎えたことでしょう。アブラハム自身も、どんなに得意満面、鼻高々だったことでしょう。 

 ところが、そんなアブラハムの前に「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」と声をかけて来たのがメルキゼデクでした。 アブラハムは、その声によって、ハッと目を覚まされたのです!

 私が敵をやっつけた、私の作戦が勝利をもたらした。自分こそがこの勝利の立役者だ、と思い込んでいたアブラハム。 しかし、そうではなかった! この奇跡的な勝利は、すべて、天と地を造られた、いと高き神が働いて、与えてくださったものだ。誉められるべきは、私ではなく、神なのだ! そう思い至ったのです。

 勝利して帰って来たアブラハムを迎えた人物がもう一人いました。ソドムの王です。

ソドムの王自身、侵略軍と戦って、打ち負かされ、逃げ帰って来ました。ソドムの町は侵略され、多くの者が連れ去られ、財産は略奪されていったのです。

 そこに、敵を打ち負かし、人々を連れ帰り、財産も取り戻してくれたアブラハムが凱旋したわけです。ですから、ソドムの王にしてみれば、アブラハムは大恩人なのです。そこで、ソドムの王はアブラハムにこう言うのです。「人々は私に返し、財産はあなたがとってください」それはアブラハムの功績からしたら、当然のことかもしれません。 

 それに対してアブラハムは 創世記14:22-23でこう言うのです。

 

 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。

 

・・・アブラハムはソドムの王の性質を見抜いていました。 もし今、王の申し出を受けて、莫大な財産を得たとすると、たとえそれが、正当な権利であったとしても、後になってソドムの王は、きっと「あのアブラハムを金持ちにしてやったのは、俺様だ」と言い始めるに違いないことを見抜いていたのです。

 そんなことになれば、まことの神様の栄光を盗むことになる。 メルキゼデクが「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」と語った祝福の言葉のように、栄光はただ神にのみ帰すべきで、それは人が盗み取ってはならないのです。

 私たちの中にも、ソドムの王と同じ思いがないでしょうか? 私があの事をした、私があの人のために良いことをした、私が、私が、と自分のしたことを、人に言いたくてしょうがない。誇りたい! 私たちの中にも、この王様と同じ性質が潜んでいるのです。 私たちは、私が、私が、と言いたい存在なのです。

 アブラハムも、私がやった! 私が取り戻した! 私が自分の力で勝利した! 凱旋将軍のような面持ちで帰って来ました。しかし、そんなうぬぼれ、高ぶりはメルキゼデクの言葉によって、打ち砕かれたのです。 箴言10:22にはこうあります。

 

 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれを加えない。

 

・・・ちょっと考えたらムッと来ますね。私の苦労が! 私が努力したから! 私が頑張ったから! 私の力でこのことは成し遂げたのだ! しかし、聖書は「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれを加えない。」と語るのです!

 アブラハムはその真実を知らされました。主の祝福そのものが、仲間の結束を与え、敵に動揺を与え、奇跡的な大勝利をもたらしたのだと。

 だから、アブラハムはソドムの王の申し出を拒否して、莫大な宝を得ることを選ばなかったのです。アブラハムはソドムの王にこう言いました。

 

「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。」

 

アブラハムは、今、神を「天と地を造られた方、いと高き神」として新たに知ったのです。

 

 礼拝の最後に祝祷があります。祝福の祈り。それは、単なる礼拝の終わりのしるしになっていないでしょうか? 説教を聞いて、やっとこれで終わりだ。祝祷で終わり、と。礼拝終了の合図の言葉になっていませんか? 

 祝祷はこう言う言葉で祈ります。「イエスキリストの恵み」受けるに値しない者に注がれる神の一方的な愛と恵み。 「父なる神の愛」父なる神の驚くべき愛が私に注がれ、その愛によって私は生かされ、支えられ、用いられていく。 「聖霊さまとの親しい交わり」私のうちに住んでくださっている、聖霊なる神によって、私は今週、神と共にある日々を送ることができる! 祈ることができる! 聖書のみことばを思い出すことができる! み言葉を日々の生活の中で実際に適用することができる! と受け取るのです。

 祝祷は祝福の祈りであると同時に、祝福の宣言でもあります。ですから、あなたにイエスキリストの恵みがあります! 父なる神の愛が注がれます! 聖霊さまとの親しい交わりがあります! と力強く宣言されているのです。

 アブラハムはメルキゼデクから「祝福を受けよ」すなわち、祝福はある! 注がれている!

と宣言され、それを受け止めて、さらなる信仰の高嶺へと引き上げられていったのです。

 私たちも、「神の祝福があなたと共にあります!」 こう宣言してくださる神さまを見上げ、神さまと共に歩んで行きましょう。 

 
 

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