キリストに結び合わされて
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026.9.6 コロサイ人への手紙2章16~23節
ジョイチャペルが指針としている聖書箇所が、教会ホームページの「ジョイチャペルの紹介」と言う項目の最後に3つ掲げてあります。そのうちの一つが1テサロニケ5:16-18
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
です。
私の感謝はたくさんありますが、そのうちの1つは、娘の家族が毎週、浦和から教会に通って来ているということです。 先週の午後、ほっとしているところに「じーじ、あそぼ」と5歳の孫に声をかけられて、おもちゃが置いてある子どもの部屋へ連れていかれました。そこで、車でしばらく遊んだのですが、子どもは乗り物が好きですね。車や電車、飛行機など。
いろいろとを思いめぐらしていたら、タダで乗せてくれて、素晴らしい所に運んでくれる乗り物があることを思い出しました。子どものころ日曜学校でよく歌った「福音の汽車」。
私の母は20年前の3月3日に召され、この教会で最初の葬儀を行いました。その母は召される7年前の80歳の時に高木先生から「お母さん、イエス様から天国行きの切符をもらいましょうね?」と勧められて「はい!」と答えて洗礼を受けさせていただきました。
みなさん、私たちは無代価で、ただ信じるだけで、罪赦され天国への切符を頂くことができるのです。何と感謝なことでしょうか。 このことを覚え、主に感謝をささげるのが礼拝なのです。 どうぞ、礼拝で語られたことに一人ひとりがどう応えていくべきか、自分自身に問いかけ、今週どういう歩みをしていくべきかを祈りの中で示して頂き、教えていただいて、決断する礼拝としていだきたいと思います。
さて、今日の聖書箇所を見て行きましょう。16節
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
食べ物、飲み物、祭り、新月、安息日など、旧約の律法の細かい規定からはもう解放されているのだ! と語るのです。コロサイ教会に入りこんだ偽教師は「そんなものを食べていいのか? 聖書にはこうあるぞ」と語り、祭りにしてもユダヤ人にとっては大切なものがたくさんあり、彼らは律法を守るために、たくさんの細かい規定を作って、それを強調しコロサイの人々を不安にしたのです。しかし、パウロはガラテヤ5:14で
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
と語るのです。 だまされないようにと17節で
これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
旧約の様々な教え、儀式、祭り、規定、律法は影で本体はキリストだと語り、本体がなければ影は生まれないではないかと主張するのです。
律法の目的は、神がどのようなお方か、聖い方であり、人々に神を恐れることを学ばせ、反対に自分は何と汚れた罪深い者かを自覚させ、へりくだらせることなのです。
ガラテヤ3:24にこう言われている通りなのです。
律法は私たちをキリストに導くための養育係となりました。
しかし、ユダヤ人は律法を守ることに熱心になるあまり、本質である愛をないがしろにしてしまったのです。 自分は守った、守っているぞ、と自己満足に陥り、守っていない人、守れない者を裁いてしまうのです。
ルカ18:10~にはパリサイ人と取税人の祈りの言葉があります。神の前にも胸を張るパリサイ人は、断食も献金もこんなにしっかりやってます、と祈ります。しかし、取税人は「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るのです。イエスさまはこの取税人が義と認められて家に帰った、と言われたのです。
18節
あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
自己卑下とは「謙遜ぶる」言葉や姿勢を見せて、実は誇っているのです。
御使い礼拝者とは、謙遜ぶって、汚れた自分が聖い神に近づくことはできないので、神への仲介的な存在の助けを借りて礼拝をしなければならないと考え、そうしてくれる存在にも礼拝をささげなければならない、との主張があったのです。しかし、そんなことはないのです! それは、礼拝すべき方はただお一人であることを混乱させる教えなのです。
19節
かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
かしらであるキリストに結びつくことによってのみ、からだ全体が養われ、結びつけられ、成長させられるのであって、ひとり一人が直接キリストと結びつくことが大切なのです!
「キリストのからだなる教会」と聖書は語ります。そのかしらはキリスト! 私たちはからだのそれぞれの部分、各器官と表現されるのです。 人間のからだで言ったら、脳と神経によって各器官が結ばれていて、脳の命令通りに各器官が動く状態が健康なからだであり、霊的に言ったら、かしらであるキリストの語られた通りに歩んで行くことが、健全な教会の状態なのです。
20-21節
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」とうような定めに縛られるのですか。
キリストによって新しくされたのに、古い生き方に逆戻りしてはならないのだ!と聖書は強く迫るのです。
昔の人は、いや今でもそうかもしれませんが、クリスチャンをクソまじめで面白くない人間だと思って、こんな歌を作りました。
「酒飲むな、タバコ飲むなの耶蘇教は、あーめんどうな宗旨なり」
22-23節
そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
クリスチャンは厳しい戒律に縛られている者たちですか? その反対です! 様々な規定から自由にしてくださるためにイエスさまが来てくださって、自由にされた者がクリスチャンなのです。
「○○しないこと」が立派なクリスチャンではありません。いろいろとしないことを誇り、他者を見下すなら高ぶりとなり、神さまが最も嫌われる高慢な者となってしまうのです。
「かしらであるキリストに堅く結びつく」これが最も重要なことなのです。自らをいくら厳しく律しても、キリストに結びつかなかったら何のための厳しさなのでしょう?
第一コリント13:2
「愛がないなら、何の値うちもありません」
私たちは「今、私はこれをキリストにあって行っているだろうか」「キリストに結びついて歩んでいるだろうか」 そう自らに問いかけていく時に、
「主に喜ばれる歩み」ができるのではないでしょうか!