主イエスは救い主です
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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更新日:52 分前
2026.1.18 マタイの福音書24章1-8節
今日も、先週に続いて、11日にボーマン先生が語ってくださったメッセージを、私が受け止めさせて頂いた内容をもとに、お語りしたいと思います。
イエスさまが私たちの罪を赦すため、十字架に架かって、死んでくださったことによって、神の愛とあわれみを現わしてくださいました。イエスキリストこそ、私たちの救い主なのです。
この神さまは昨日も今日も変わらないお方、永遠の救い主なのです。
聖書に照らし合わせると、私たちは今、終わりの時に生きています。黙示録には、終わりの時代のことが書かれています。 「黙示」なので、様々な解釈がなされてきました。ゆえに難解の書と言われているのですが、人々が大切なことに無知でないようにと、イエスさまも、パウロも将来のことについて多くを語っています。 しかし、難解な部分が多いのです。
イエスさまはマタイの福音書24章で世の終わりの前兆について語っています。4-8節で
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
とはっきりと語られています。
「惑わし=フェイク」「戦争と戦争のうわさ」「国同士の敵対」「ききんや地震」、現在の世界の状況と重なります。しかし、これらの前兆は「産みの苦しみの初め」だと言うのです。21節を見ると
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
「産みの苦しみの初め」それは「かつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難」だと表現され、これこそがヨハネの黙示録6章以降の出来事として表わされている「大患難時代」を指しているのです。このように、イエスさまは終わりの時、大患難時代が来ると語るのです。
この大患難時代に関連して、先週お語りした「携挙」と関連付けて研究してきた神学者が何人もいるのです。大患難時代と携挙の関係において、3つの考え方があります。
①大患難時代の前に携挙 ②大患難時代の中での携挙 ③大患難時代後に携挙
この中でボーマン先生は①を支持しておられます。それは、シンプルに聖書の順序通りだからです。ボーマン先生は聖書が語っているそのままを、文字通り信じ、語っておられると言うのです。 自分の考えより、聖書は何を言っているのか、理解ではなく、悟らされる必要がある、と語るのです。
近年、インターネットが発達し何でも簡単に調べることができます。ネット上では、大患難時代や携挙に関して様々な説が語られています。そして、それらによって簡単に「だまされる」恐れがあります。ネットで語られていることを、簡単に信じることは危険なことと思わねばなりません。
「聖書は何と言っているか」が大切なのです!
どのように終りの日がやって来るのか、聖書通りの順序に従ってみていくと、
第一に「携挙(クリスチャンが空中に引き上げられ、イエスさまとお会いし、天に主と共に移される)」が起こり、
第二に、反キリストが現れ、初めは人々をうまくだます
第三に、大患難時代がやってきて、
最後に、イエスさまが地上再臨される。
携挙があって、最後にイエスさまが地上再臨されて、世を治めることになるのです。いつ、どういう時に、それが起こるのかが、ルカの福音書17:26-35に示されています。
ノアの時、ロトの時代と同様だと言うのです。人々が神を無視し、自分の思いのままに過ごしている時に突然!「その時」が来ると言うのです。洪水が押し寄せ、火と硫黄が天から降ってきて、すべての人を滅ぼしたのです。しかし、ソドムが滅ばされる前に興味深い対話がアブラハムと神さまとの間になされました。(創世記18章20~33節)アブラハムは、神さまに前に必死に食い下がるのです。18:23
アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」
アブラハムは最後に、この町に十人の正しい者がいれば滅ぼさない、という約束を取り付けるのです。 神様は、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼしてしまうような方ではないのです。滅ぼされてしまう世界の中から、救い出してくださるのです。とても困難な状況の中から、助け出してくれるハイパーレスキューのように。
破滅から人々を救い出すことが、イエスさまがこの世界に来てくださった目的であり、罪に縛られている者の救出作戦がやがて、イエスさまによって行われるのです。ヨハネの福音書16:33には、イエスさまが
「あなたがたは、世にあっては患難があります。」
と語っておられます。私たちがこの世にあって生きる限り、様々な患難がある、試練にあう、と語るのです。しかし、そういう中にあってもイエスさまは救ってくださるのです。
聖書にある、「試練」と「神の怒り」は違います。神様は、私たちがさらに神様により頼むようにと試練を与えられるのですが、神の怒りは、最後の最後まで神に背を向けている者を滅ぼしてしまうものなのです。 しかし、私たちはイエス・キリストによって「神との平和を得ている」(ローマ5:1)のであって、1テサロニケ1:10には、
神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られる
とあり、「御怒りから私たちを救い出してくださる」と示しているのです。 さらに、1テサロニケ5:9には
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
とあるのです。
聖書は、携挙、大患難について多くの箇所で語っています。同時に慰めも語られているのです。ヨハネの福音書14:1~3にはイエスさまが
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
と語り、不安の中にいる者に対して「心を騒がすな」「また来て、あなたがたを迎えに来るよ」と言われるのです。
聖書は、私たちを恐れさせるために大患難時代が来ると告げているのではありません。今がどういう時代なのかを理解させるために、はっきりと語っておられるのです。
だからパウロも、当時、皇帝礼拝が盛んで、激しい迫害の中にあったテサロニケ教会に対して、携挙について詳しく教え、「このことばをもって互いに慰め、励まし合いなさい」と勧めるのです。
イエスさまもパウロもヨハネも、これから起こることについて多くを語っています。聖書は現実をそのまま語り、私たちが危険な時代に生きていること、生きていくことを前もって語っています。
しかし、どんなに困難な時代に生きようと、どんな問題の中にあろうと、イエス・キリストは私たちを救うことができる救い主であることが、私たちにとって大きな希望なのです。Ⅰコリント15:58に
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
とあります。神の言葉、神の真理に「堅く立って、動かされることなく」、恐れないで歩むようにと聖書は語るのです。 世の中の情報は恐れをいだかせる、不安しか与えないようなものばかりですが、恐れる必要はないと励ますのです。
「心を騒がせなくてもよい!」これが、聖書が与えるメッセージなのです。
「いつも主のわざに励みなさい」とありますが、神さまのために何かを熱心に行う、と捉えられますが、日常生活すべてが「主のわざ」であり、すべてのことをイエスさまに感謝しつつ行い、受け止めていくことが、神が望んでおられ、喜んでおられることなのです。
新しい年も、神と人に喜ばれるような歩みをさせて頂きましょう。