すべてを新しくする
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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更新日:3 時間前
2026.1.11 ヨハネの黙示録21章1~7節
今日は先週の新年礼拝に来てくださった、ボーマン先生のメッセージを早朝礼拝に来ておられるみなさんに、私が受け止めたものを、分かち合いたいと思います。
まず、先週の招詞の詩篇23篇を取り上げ、6節が心に響いたとのこと。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」の箇所で、永遠に、天国の住まいで生きることができる、新しい天に思いを馳せた、というのです。
人は、後悔をする。過去を振り返るから。 伝道者の書1章9-10節には
昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
とある。 「新しいものはない」、神のみが、新たにすることができると伝道者は語るのです。
また、イエスさまもヨハネの福音書3章3節で
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
とニコデモに「新しく生まれなければ」と語っているのです。
聖書は、人は罪のために、霊的に仮死状態にあると語ります。神と離れているからです。
しかし、神の霊により新たにされ、新しいいのちが与えられて、神の子とされるのです。ゆえに、詩篇23:6にあるように「いつまでも主の家に住」むことができるのです。
天国へ行く道は、死を通して、ですが、死を味わわずして永遠に主と共に住むことができる道もあることが、聖書には記されています。神が、人を生きたまま天に引き上げられることがあるのです。 テサロニケ人への手紙第一の4章16~17にはそのことがはっきりと記されています。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
イエスさまが「天から下って来られ」(空中再臨され)、クリスチャンが空中に引き上げられて(携挙され)、イエスさまとお会いする、とあるのです。また、携挙について、パウロは、第一コリント15:52~53でも語っています。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
「一瞬のうちに」とありますが、これはギリシャ語でアトモといいます。アトモ秒というのは、小数点の後ろに0が16個つく秒なのです。「あっという間」。その瞬間に世界中からクリスチャンが地上からいなくなるのです! 一瞬で取り上げられる。創世記5:24を見ると、エノクは死を見ずに神に取り上げられました。 携挙の時は、すべてのクリスチャンが同じように取り上げられるのです。
携挙に関する聖書箇所を2か所見てみましょう。
①ルカの福音書17章26-35節
ここでは携挙が起こるときは、ちょうどノアやロトの時代のようだと語るのです。それは、神を度外視して、自分勝手に好きなように生活をしているときに、突然、洪水が押し寄せ、ロトが住んでいたソドムには天から火が降ってきて、人々は滅ぼされました。
ソドムは今日の考古学の研究によると、死海の北の方であり、その周辺の地層から陶器が溶けてガラス状になっているものが発見されました。これは、ものすごい高温にさらされた証拠であり、科学者は、広島に落とされた原爆の熱の1000倍であろうと言うのです。考古学者は信じられないものを発見しましたが、まさに、聖書が真実であることを証明することになったのです。
世の人は携挙がわからない。毎日、今の生活がいつまでも変わらないと思っています。クリスチャンが取り去られても気にしない、理解できないのです。
しかし、イエスさまも、ここで「ふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは取り残されます」と語っておられます。まさにそういう時代に、携挙がなされるのです。
聖書ははっきりと、イエスさまが空中に降りてこられ、クリスチャンが引き上げられる、そこで主とお会いして、天国に連れて行ってくださる、と語るのです!
②ヨハネの福音書14章1-4節
3節に「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と、ここでもはっきりと携挙について語っているのです。
聖書は、イエスさまと私たち・教会との関係は花婿と花嫁、結婚する関係にある、というのです。当時のユダヤの結婚は、まず両親同士が同意し、すぐには一緒に住まない。両親が住居を決める。そして、花婿が花嫁を迎えに行く。そこでは、トランペットが吹きならされ、それから迎えに行き、家に入り、そこで婚礼が行われ、ここで初めて夫婦となる。 古くからのユダヤの婚礼のかたちは、携挙の過程と同じように行われるのです。
マタイの福音書25:1~13には、イエスさまが「天の御国」についてのたとえを語っておられます。十人の娘がそれぞれともしびを持って花婿を出迎えるようだと。そのうちの5人は賢く、入れ物に油を用意していたが、愚かな5人は油を用意していなかった。花婿が来るのが遅くなり、みなうとうとして眠り始めたころ花婿を迎えに出ようとしたが、愚かな娘たちのともしびは消えかかっており、油を買いに出ていった。その間に花婿は到着し、戸は閉じられてた。愚かな娘たちは帰って来ても、もう中には入れてもらえなかった。 このたとえの結論をイエスさまはこう言うのです。
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
油は聖霊を現わしています。キリストの救いを信じて歩みだす、別の言い方をすると、神によって新たに生まれさせられると、聖霊が与えられるのです。
いつかは誰も知らない、と聖書は語りますが、世界中のクリスチャンが携挙された後、大患難時代と言って、福音を伝えるのが困難な時代が来るのです。でもその中でも救われる者が起こされ、同時に殉教する者も出てくるのです。 しかし、私たちは患難時代を経験することはなく、すでに携挙されて主と共にいるのです。
ですから、私たちが意識しなくてはならないのは、コリント人への手紙第二 6章2節
「今は恵みの時、今は救いの日」
ということです。 今は患難の時代ではなく、「今は教会時代、今は恵みの時!」なのです。自由に福音・神の言葉を聞き、語ることができるのです! この時代にあって、今、私たちに示され、できることを精一杯させて頂きましょう。