2025.3.30 テサロニケ人への手紙第二1章1~5節
(1)神とキリストのうちに
テサロニケ人への手紙第二に入ります。テサロニケの町も当時はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝礼拝が盛んでした。クリスチャンは、神以外を礼拝することはしなかったので、迫害を受け、その生活は困難を極めていました。そういう中にあって、テサロニケ人への手紙第二が書かれたのです。まずは、手紙の挨拶から、1-2節
パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神および主イエス・キリストにある
テサロニケ人の教会へ。
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
「父なる神および主イエス・キリストにある」とのことばの中に、私たちが持っている信仰がどのようなものか、何に拠って立つものなのかが明確に示されています。
それは、私は神とキリストのうちにある者、との自覚なのです。クリスチャンの最も大切な自覚は、自分自身が神とイエス・キリストのうちにいるという霊的真理を、確認し続けることです。クリスチャンがクリスチャンであること、自分のアイデンティティーが、他の何ものでもなく、ただキリストのうちに置かれていること、キリストと共にある、という事なのです。これを常に意識して生活しているのがクリスチャンなのです。 何かをするから、良い行い、奉仕、献金、賛美、祈り、交わり、それらをしなくても良いというわけでは在りませんが、それらが出来なくなってしまったら、していないならば、クリスチャンではないのでしょうか? そんなことはありません!
何が出来なくても、キリストご自身により頼む者がクリスチャンであり、キリストにより頼む群れが教会なのです!
あいさつ文の後半に「父なる神と主イエス・キリストからの、恵みと平安」とあります。
私たちが何かをしたのではなく、神がキリストにあって行なってくださった、神の側でなしてくださったことによって、私たちは罪と死から救われました。 神が一方的に、私たちのためにして下さった愛の業、それが「恵み」なのです。 この恵みこそが、私たちクリスチャンの力の源泉なのです。そして、この神の恵みがあるときに、神の平安があります。
物事がうまくいくときに神との関係が良好になり、うまくいかないときには、神との関係が悪くなる、そのような関係ではないのです!
いつも神に愛されているとの確信があるから、そこに、神との安定した関係が保たれ、この関係があるからこそ、私たちは神の平安の中で歩んで行くことができるのです。 3節
兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
「あなたがたの信仰が成長し、相互の愛が増し加わっている」とあります。牧者として、これほどうれしいこと、感謝なことはありません。
信仰が成長するとはどういうことでしょう? 一般的に成長するというと、子どもの成長する様子が思い浮かびます。赤ちゃんは「成長したい」と言う思いは持っていませんが、お腹がすけばおっぱいを欲しがり、大きな声で泣き続けたりします。また、疲れてぐっすり眠ります。そんなことを繰り返しながら、どんどん成長していくわけです。 きちんとした食事、運動、睡眠、そして親の愛情、これらのものがバランスよく与えられると、すくすくと
育ち成長していくのです。
クリスチャンの成長もこれとよく似ています。間違いやすいのは、自分で一生懸命学んで、努力して、励んで、自他ともに認める、立派なクリになろうとすること。ちがうのです! そうではないのです! 赤ちゃんと同じように、きちんとした、規則正しい食事<御言葉の栄養>をいただき、適度な運動<祈りと賛美と証>をして、睡眠<安息>し、親<神>の愛を十分に受け取る。それを繰り返していたら、自然と神が成長させてくださる!
信仰が成長すると、恵みを受けるだけでなく、与える者に変えられるのです。愛を注いで頂いて、愛を注ぐ者とされていくのです!
(2)愛することができる者
さらに、神は現実の生活の中で、様々なことを通して成長させてくださるのです。4節
それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。
テサロニケのクリスチャンは、迫害と患難の中にいて、その中で耐えながら従順と信仰を保っていました。「迫害と患難」が、彼らの信仰を成長させて、相互の愛を増し加えるようになったのだと語るのです。
考えてみると、神さまは、私たちを成長させるために、あえて、試練を与えるという事があります。 信仰を持ったら、すべてがうまくいく、喜ばしい事ばかり、ハッピー、ハッピー・・・とはいかないのです! 現実の、日々の生活の中では、仕事や家庭の問題、自分や家族の健康問題、経済的な問題、辛い事、苦しい事、悩み事は次から次へと押し寄せてきますよね。
私も、教員時代に、中学校が荒れに荒れていた時に、市内で最も荒れていた学校に転勤になり、そのすさまじさを身をもって体験し「神さま!なんでこんな学校に転勤させたんですか?」 と不満をぶつけたものでした。 でも、そういう中で、もう、祈って、祈って、神さまにただお頼りして進んで行くしかなかったのです。大きな試練と共に、貴重な訓練でした。 神さまは私たちが、もう必死で祈り、神さまに頼らざるを得ない状況に追い込まれることがあるのです。 コリント人への手紙第一10章13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
また、へブル人への手紙12章11節には
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
とあるのです。 時として、私たちは「神さまって、なんていじわるなのだろう」と思うことがあるでしょう。 でも、神さまは私たちをいじめるようなお方ではありません! 試練を通し、懲らしめを通して、さらに神さまに頼り、祈り、神の愛を知り、愛の人として生きるようにしてくださっているのです。
私たちの身の周りに、困難や試練が起こったときに、すぐにはこのことによって、信仰が成長させられるのだ、とは思えないでしょう。 しかし、このことさえも、神の許しの中で起こったことなのだと受け止め、主により頼み、祈りつつ歩んでいく時に、痛みが伴うでしょうけれど、御霊がその試練に応じて、神の豊かなあわれみと愛を注いでくださり、クリスチャンとして鍛えられ、本当の意味で、人を愛することの出来る者にしてくださるのです。
(3)神の国にふさわしい者
今日の中心 5節
このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。
「神の国にふさわしい者」 「神の国」というと、私たちは、いわゆる天国をイメージします。それは、この地上の生涯を終えて、神と永遠に生きる世界、と考えます。 それは、その通り、間違いはありません。 しかし、別の側面から見ると、神の国とは、神の支配される所!とも言えるのです。神の支配に服する状態ともいえるでしょう。そう考えると、神の国にふさわしい者というのは、神の支配に全く服する者、神の言葉に全く従う者、という事ではないでしょうか。
私たちは、そのように、「神の国にふさわしい者」でしょうか? 静かに考えてみると、神の国にふさわしい者は、誰一人としていないのではないでしょうか!
しかし、愛の神は、ふさわしくない者を、ふさわしい者にするために、イエス・キリスを十字架に架けてくださって、神の国に迎え入れてくださったのです! これが恵み!
この恵みを忘れることなく歩んで行きたいと思います。
神の国の住人にして頂いている恵みは、まさにアメイジンググレイス
私たちは、この地上での神の国の建設のために、選ばれ、召されたのです。そして、様々な困難や苦難の中にあったとしても、神のすばらしさを表わし、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝して歩んでいきましょう。神の愛をあふれるほどいただいているのですから。