2024.5.26 ヨハネの手紙第一 5章1-5節
(1)最も大切な教え(戒め)
イエスさまは、最も大切な戒め(教え)として、「心を尽くして、神を愛すること」と「自分と同じように、隣人を愛すること」と語りました。そして、新しい戒めとして、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」を加えて、3つの愛をお示しになりました。
私たちが日々歩んでいく中で、神様が私に何を求めておられるのか、を知ることはとても大切な事です! それは「愛をもって神と人に仕える」ということなのです。しかし、私たちはそれを容易にはできない自分であることを知っています。私たちが信仰生活を続けていく中で、神様によって自分の弱さを知らされる、自分の罪深さを知らされる、ということは、クリスチャンとしての歩み、成長していく過程でとても大切なことです。
自分は神様に見守られている、ということを深く意識する時、ちょっと怖いような言い方をすると、私は神の目にさらされている、と言うような思いを抱くとき、それは、まさに、「神の臨在」を意識するということなのです。「良い人間になろう」「もっと親切な態度で、人に接しよう」「人の嫌がることを進んでしよう」というような、自分で頑張るということではない! そのように、自分を見つめている限り、正しく自分を知ることにはならないのです。自分を正しく知るためには、聖い神の臨在の前に自らが、引き出されなければならないのです。神の前に出るということ!
私たちは神の前で、ごまかすことも、うそをつくこともできません。ちょっとした言い逃れや、弁解であってもです。あるいは、自分ですら気がつかないような、罪深い動機のすべてについても神はご存知なのです。私たちは、そのような全知全能の神の前に置かれていることを知らなければなりません。
世の人は、これを聞いて、これではやっていけない、と感じるかもしれません。実際、疲れる考え方であり、息苦しい生き方だと、考えるでしょう。また、それは精神衛生上、決して良いことではない、と主張します。クリスチャンはすばらしいと感じている人でも、日曜日に毎週教会の礼拝に出席する生活など、とても信じられない、そして、「そういう束縛された生活のことを考えると、私はとてもクリスチャンにはなれません」と言うのです。神のことを考えると、かえって、自由を奪われるようで、それこそ不幸になると思うのです。
(2)神の命令は重荷とはならない
しかし、聖書は5章3節でこう言うのです。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」 ヨハネはこの手紙の中で、「命令」と強い言葉を用いて、人間にとっては、困難な「神を愛し」「隣人を愛し」「互いに愛し合う」という「神の命令を守れ」と言いました。
ここで、イエスさまの徹底的な批判の対象となった、律法学者、パリサイ人の歩みを考えてみましょう。彼らはなぜそこまで批判されたのでしょう? 彼らは律法の戒めを厳格に守ろうとしながら、そして、それを人々に要求しながら、神との交わりを知らなかったことにあります!
彼らは神を愛すること、神との親しい交わりよりも、律法そのものにとらわれていました。そこに問題があったのです。正しい行いをして、律法を守り、行なっていれば、それでよしとする生き方。そこには、神との人格的な交わりや、神のみこころを求めての愛の関係はなく、文字に仕え、これまでの生き方や習慣に生きようとして、神との真剣な対話がなかったのです。常識的な判断はあったでしょうが、神を親しく知ることがなかった。
こういうことがあるでしょう!愛する人が自分の前に現われたとき、不思議にその人の喜ぶ事をする。それは、決して重荷とは感じないで、いやむしろ喜んでしようとするでしょう。人のために何かをするのが苦手な人でも、愛する人が現れると、別人のように、その人に一生懸命仕えるのです。なぜでしょう? それはその人を愛しているから! それが人間の自然な姿です。
子育てをしている人、その経験のある人は、わかるでしょう。子育ては本当に大変ですね。何が大変かと言うと、時間を奪われる!夜中に何度も起こされる、ミルクを作る、おむつの交換、やがて成長し、自分で食事をしたがり、テーブルも、床も、着ている物もよごす。熱でも出たら夜中でも病院へ連れて行く・・・本当に大変。 じゃあ、子育て放棄する? いえ、時間も労力も使い、大変だけど、愛するわが子のためにすることは、喜びであり、子どもの存在を喜びます。愛するがゆえに、あらゆることが重荷とは感じないのです。いやむしろ、何かをしてあげなければ、という思いに動かされるのです。
・・・それはまさに 父なる神が、私たちに対する思いでもあるのです! 聖書は「神は愛です。」(Ⅰヨハネ4:16)と語ります。神は、私たちが願うこと、私たちが喜ぶこと、私たちが幸せに思うことを、私たちに与えようとしておられるのです。 神の私たちに対する一切の行為は、愛の動機に基づいているのです! それが聖書の示す神なのです。
だからこそ、自分の最愛のひとり子を身代わりにしてまで、私たちを救おうとなさる神なのです。その神を知ったキリスト者は、同じように神を愛する者に変えられます。いのちの恩人であり、今も愛し続けてくださる、そういうお方を愛さずにはいられないのです。私たちは神を愛するゆえに、神に喜ばれることをしたい、喜んで従いたいと思うようになるのです。だから、その命令が、重荷にはならないということなのです。
神様との愛の関係が、愛の絆がしっかり結ばれているなら、重荷ではなく、感謝と喜びをもって従って行く、従わせてくださいとの思いで進んで仕えていけるのです。
私たちを限りない愛(永遠の愛)をもって愛していてくださる神さまに、感謝と喜びをもって仕えていきましょう。