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神のキリストです

2025,2,2 ルカの福音書9章18-22節   

 

(1)一人になって祈る

今日開いた聖書は、とても短い箇所ですが、私たちが喜びをもって主に仕えていくためには、非常に重要な内容であると言えます。 本文を見ていきましょう。  まず18節

 

さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群集はわたしのことをだれだと言っていますか。」

 

まず、ここで重要なことは「イエスがひとりで祈っていた」ということです。 

このルカの福音書の出来事は、マタイ、マルコそれぞれの福音書にも記されています。そちらも合わせて読むと、同じ出来事がさらに詳しく理解することができます。マタイ、マルコには、この出来事が起こった場所が書かれています。 マタイ16章13節

 

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。

「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

 

マルコ8章27節

 

それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

 

ピリポ・カイザリヤという地名が出てきます。この地方は、ガリラヤ湖からずっと北に行った所でして、ヘルモン山の雪解け水が、地中にしみこんで、ふもとで泉となって湧水が地を潤し、やがてヨルダン川となってガリラヤ湖に注ぐ、緑に囲まれた地域なのです。南のユダヤ、サマリア地方の砂漠地帯とは大違いの、心休まる場所なのです。 イエスさまがそこへ弟子たちと行かれたということは、群衆から離れて、弟子たちだけと過ごす時間を作り、そこで改めて弟子たちを教え、次の段階=十字架への道を歩みだすのだ、ということを理解させるための、ピリポ・カイザリヤ行き、だったと思うのです。

そういう場所で、ルカだけが記しているのが「イエスがひとりで祈っておられたとき」という1節。 イエスさまは恐らく、一人で山の中に入って、誰もいない所で、父なる神さまに祈っておられたのでしょう。 イエスさまは、特に大事な所では必ず祈っておられます。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられて、祈っておられると、聖霊が鳩のように降ってきました。十二使徒を選ばれる時も、祈りながら夜を明かされ、それから12人を選ばれました。 また、主の祈りを教えられた時も、イエスさまが祈っている姿を見て、弟子の一人が祈りを教えてくださいと願い求めたので、お教えになったのです。 まだありますが、それほどまでにイエスさまはここぞという時には、熱心な祈りの時を持ったのです。 何より、ひとりだけで、祈りの場に身を置き、父なる神さまのみこころを求め、この問題、この課題についての導きを仰いだのです。 

これは、私たちが祈る時の一つの模範です! もちろん二人以上で心を合わせて祈る祈りも、マタイ18章19節で言われていますが、イエスさまが山上の説教で祈りについてこう言われました。マタイ6章6節

 

 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。

 

 自分の部屋などありません、という人もいるでしょう。何も、物理的に「部屋」でなくてもいいのです。一人になれる時間、場所、そこがあなたの密室となり、そこで、父なる神さまに、ありのままの自分の思い、願いを、あるいは苦しみ、悲しみ、辛さを、神さまに対して失礼な言い方かもしれませんが、ぶつけるのです! 密室でなければできない祈り、神さまとの真実な交わりがそこにあるのです。私たちは、神さまを「アバ父」お父さん!アボジ!と呼ぶことができる者とされたのです。 マタイ7章9-11節

 

 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 

聖書は神さまの約束の言葉です。この約束を握って、どんなことでも祈っていきましょう。  

 

(2)キリストからの問いかけ

もう一つ、この箇所で重要なことは、イエスさまが弟子たちに対して、明確な信仰告白を迫っている、ということです。イエスさまはまず、18節後半で

 

イエスは彼らに尋ねて言われた。「群集はわたしのことをだれだと言っていますか。」

 

と問いかけ、まず群衆はイエスをどう見ているか、と弟子たちにとって、第三者的に言いやすい質問をします。すると、19節で

 

彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」

 

と答えます。一般の人々、イエスさまの話を喜んで聞き、パンの奇跡を目の当たりにした群衆は、イエスさまを救い主、その方ではなく、救い主を指さす偉大な預言者の一人であるとの見方にとどまっていたのです。そして、すかさずイエスさまは弟子たちの信仰を問われるのです。

 

 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 

世の人々ではなく、「あなたがたは」私を誰だと言うか?  ここに来て、イエスさまは、これまで寝食を共に、自分の側において、教え、訓練してきた弟子たちに対して、彼らの信仰を、自らはっきりと表明し、自覚させようとして、弟子たちに迫ったのです。

 私たちの信仰の歩みにおいても、神さまはある時点で、私たちに何らかの決断や選択を促したり、迫ったりすることがあります。 

みなさんも、初めて教会に来て、気持ちよく迎えられて、みんな親切で居心地がいいし、聖書の話もためになるし、なんとなく教会に通い続けている、そんな経験をしてきた人がいるのではないでしょうか?  あるいは、今、自分はそんな感じで教会に来ています、という方もいらっしゃるかもしれません。  

そういう中で、神さまはある時、私たちひとり一人に「あなたは私を誰だと言いますか」と問いかけなさるのです。

イエスさまの問いかけに、20節後半

 

ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

 

非常に短い言葉ですが、同時に素晴らしい信仰告白の表明です。キリストとは元々、油注がれた者と言う意味であり、旧約聖書の時代は、王、預言者、祭司となる者に油が注がれて、任職したのです。ペテロの信仰告白は、「イエスさま! あなたは、人からではなく、神から、神が立てられた、神が油注がれたお方であり、私を治めてくださる王であり、神の言葉を語ってくださる預言者であり、祭司として罪人の私を犠牲をもって、ご自分が犠牲となって、神にとりなしてくださるお方です!」との内容を凝縮したものなのです。

 分かりやすく言うと、「イエスさま! あなたは私の主であり、十字架に架かって私の罪を赦してくださる救い主であることを信じます。あなたのお言葉によって私を導いてください。」との信仰告白をしているのです。

今日、イエスさまはあなたにも「あなたはわたしを誰というか」と問いかけておられます。 

あなたはなんとお答えになりますか?

                                             

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