2024.11.3 ルカの福音書8章19-21節
(1)信仰者とその家族
マタイ、マルコ、ルカの福音書は、同じ内容の記事が沢山あります。今日の箇所もそうです。マルコの方が少し詳しいので、そちらを見てみましょう。マルコの福音書3:31~35
さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、
兄弟たちとはだれのことですか。」
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。」
神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
大勢の人がイエスさまを囲んで、その語る言葉に耳を傾けていた、その場所にお母さんや、兄弟たちがやって来たのです。家族がなぜイエスさまの所に来たのか、マルコ3:21を見るとわかります。
イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。
「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。
「連れ戻すため」それは「気が狂った」と言う人たちいたからだというのです。また、30歳になったら、突然家を出て、新たな宗教グループを作って、弟子たちと一緒に、あちこち巡り歩いて、人々を驚かすような不思議なことをしたりしている。それまでの息子、また兄とあまりの変わりように、おかしくなったのではないかと思って、心配して一家総出で、連れ戻しに来た、という訳なのです。
しかし、イエスさまは「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」と言われました。家族にとって、こんな言い方をされたのでは、がっかりもし、怒りもしたのではないでしょうか。ここに、信仰の言葉と人の思いとがぶつかる姿を見るのです。
みなさんも信仰を持った時、家族との関係が悪くなり摩擦が生じ、時には迫害されるというようなことを経験された方もいるのではないでしょうか。
(2)外に立つ者
もう一度マルコ3:31を見てみましょう。
さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
「外に立っていて」という言葉は象徴的なことばだと思います。中に入らず、イエスさまの外側に立つ者と捉えられることができます。心の外側にイエスさまを置いているともとれる言葉です。
同じ屋根の下に暮らしているのに、心がバラバラ。家庭内別居と言う言葉がかつてはやりましたね。弟子も群衆もイエスさまの話に耳を傾けているのに、肉親は物理的にも、精神的にもイエスさまの外側に立っている状態!
イエスさまは、人々の罪を赦し、永遠の命を与えるために、この世に来てくださったのに、それを最も身近な者が、理解することができない。いつでも外側に立っている! そういう面では、イエスさまも人間的には、悲しい思いをされたのではないでしょうか。
私たちも家族の中で救いに与った者として、その恵みを喜ぶと同時に、イエスさまが経験された、この身近な者の無理解に対する悲しみ、落胆を味わっていく者でもあるのではないかと思わされます。
しかし、そうであればこそ、祈りに導かれ、心を込めての証が語られ福音が拡げられていくのではないでしょうか。
(3)ただ従う
先々週、種のたとえの説教をしました。ルカ福音書8:15に、良い地に落ちた種について語られていました。
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。
正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
福音の実を豊かに結んでいく人とは、みことばを聞いて、これを正しい良い心でしっかりと受け止めて、これを持ち続けていく人だと語ります。では、良い地、良い心とは何を指しているのでしょうか?
マタイ福音書13:23の種のたとえの所では
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のこと」
とありました。 くどいようですが、どうしたらみことばを悟ることができるのかというと、それはみ言葉に従うことです、とお語りしました。
羊は、羊飼いの合図のままに、導きのままについて行く。そうして従って行きさえすれば、食べ物にありつけ、水場で渇きをいやすことができるのです。良い羊飼いに従って行くなら、何の心配もいらないのです! それが、みことばに対する正しい心、良い心であり、悟ることができ、豊かな実を結ぶ秘訣なのです! 種には命があるので、良い地に蒔かれると、種が持っている命の力で芽を出していきます。 マルコ福音書4:26~29
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。
どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
このように、土地と種の関係で育っていくので、人が生えてくるだろうか、どうだろうかと気にして種を蒔いた所を見ていたってしょうがないのです! もう生えたかなと思って掘り出してみたり、そんなことやられたのでは、種のほうはたまったもんじゃない。生えようにも生えられないのです。
種を蒔いて、生えるか生えるかと気にして、ほじくって見ていれば、かえってダメにしてしまいます。 良き地とは、良き心とは、どういうことか。種のように、それ自体に生える力を持っている、実を実らせる力を持っているように、神のみ言葉をそのまま受け入れて、これに従って行く、それだけでいいのです! あとのことは気にしないで、いろいろ自分で考えて、なぜだ、どうしてだとほじくり回すから、せっかく素晴らしいみことばを、いくら聞いても、いくら読んでも、みことばの素晴らしさを体験できないのです。
大切なのは、羊のように、羊飼いの導きに、ただ従って行くこと、みことばを素直な心で受け入れ、従って行くこと! 自分勝手に行きたい方へ行ってしまうと、危険な目に遭ってしまう、迷子の羊になってしまうのです。
みことばを自分で解釈していろいろな考え方をはさんでしまうと、信仰的に迷路の中に陥ってしまうのです。 みことばそのままを信じて従って行く時に、必ず、みことばそのものが力を発揮して、神の御業を現わしてくださるのです!
「神のことばを聞いて行う人たち」これが今日の中心メッセージです。
これは今、聞いている人、そして今行っている人、なのです。どういうことかというと、信仰は過去のこと、昨日のことではないという事なのです。
神の言葉を聞く、ということは何も、礼拝説教を聞くということだけではないのです。
「日々、毎日、みことばを聞く=読むこと」が健康的なクリスチャン生活を送るためには、欠くことのできない事なのです。 そうでなければ、不健康な信仰生活になってしまい、病となって、やがて寝込んでしまう、信仰そのものが寝こんでしまうのです!
イエスさまの家族は、「神のことばを聞いて行う人たち」です。
聖霊の助けを頂いて、神の家族らしく、歩ませて頂きましょう!