神のことばは生きている
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 3 日前
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更新日:20 時間前
2026.2.22 ヘブル人への手紙4章12~13節
冬季オリンピックも今日で閉幕ですね。日本選手がこれまで以上に活躍した感動的な場面がいくつもありましたが、みなさんは、どんな競技に関心をもってご覧になったでしょうか? スノーボードのハーフパイプ、すごかったですね! よくあんなに高く飛び上がって、縦横に何度もくるくる回って着地できるのか!それも1回だけでなく、何回も連続して! 相当練習しなければできないでしょう。
オリンピックに出る選手たち、特にメダルを争う選手たちは、おそらく、毎日練習を積み重ねているのでは、と思います。もう生活の一部になっているのでしょうね。そういう生活、練習を続けていく目的は、メダルを、できれば金メダルという栄冠を勝ち取ることなのでしょう。
聖書の中にも、「栄冠を得るために」と語っている人物がいるのをご存じでしょうか? どこにそんなことが書いてあるのでしょう。 ピリピ人への手紙3章14節
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
使徒パウロがこう語っているのです。彼が得ようとしている栄冠とは、金メダルや勝利者に与えられる月桂樹のような、この世の栄誉を示す栄冠ではないのです。 神がくださる栄冠、それは上に召してくださる栄冠=天国の国民としてくださる国籍と、「よくやった、良い忠実なしもべだ」とのイエスさまのねぎらいの言葉ではないでしょうか。
今日の聖書箇所はたったの2節です。まず12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
「神のことば」とは、どういうものなのかを語っています。
その第一は「生きている」ということ。
神の言葉、聖書は本の中の本と言われています。これこそ本、というのが聖書です。昔からたくさんの本が書かれ、発行されてきましたが、その大部分は古くなり、内容も古くなって消えていきます。あるいは歴史的な文書として残って、研究対象にはなるかも知れませんが、現在の私たちには、特に一般人の私たちには、なじまない、あまり役に立たないものとなってしまっています。
しかし、聖書だけはBC2500~AD100年くらいの間に、約40人の人たちによって書かれた古い文書ではありますが、決して古びることなく、これまで世界一読まれている書物なのです。そして、読む者に命を与え、希望を与え、人生の指針を与え、迷える者に道を示し、恐れる者に平安を与え、絶望している者に希望を与えてきました。
なぜでしょう? 神の言葉は生きていて、人に命を与える言葉だからです。さらに、この命は永遠の命を指しているのです。
旧約聖書の出エジプト記の2章3節を読んだあるイギリス人が、この聖句に興味を持ちました。
「パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗ってその子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みに置いた。」
瀝青とはアスファルトのことで、アスファルトを用いたということは、地下を掘れば石油が出る可能性がある、と考えました。 聖書は誤りがない神の言葉と信じ、掘削に挑戦し、見事石油を掘り当てたというのです。
聖書は誤りがないと信じて、神の言葉に生きるなら、石油よりもはるかに価値ある、比べ物にならないものが、私たちに与えられるのです! なんと永遠の命を得ることができます。まさに、いのちの書なのです。
第二番目は、「力がある」ということ。
「力」はギリシャ語でエネルゲースと言います。そう、エネルギーの元になった言葉なのです。
神の言葉にはエネルギーがある。力、新しいエネルギー、人を生かす力・エネルギーがある!
神の言葉に触れると、造り変えられ、新しい人生に導かれ、新しい目標が与えられます。まさに本当の意味で、生きる力が与えられるのです。
第三は「両刃の剣より鋭い」
黙示録1:13~16にはイエス様の本来の姿が描かれています。16節には、
「口からは鋭い両刃の剣が出ており」
とあります。イエス様の語る言葉はまさに、この箇所の内容通りなのです!
両刃の剣は危険な武器です。しかし、医者がメスを握れば人の命を救うことができます。
神の言葉は、人の心の奥底まで刺し通し、切り分け、外から見えないものさえもえぐり出すのです。
神の言葉によって胸が刺されることはありませんか?
今日のメッセージは自分のために語られているのではないか? と思わされることはありませんか。
まさに自分のための説教だ、と感じたら、それは聖霊が示してくださったことであって、説教に対する良い聞き方、聖書の良い読み方であろうと思います。 神の言葉によって「自分自身を知らされる」 からなのです。
「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とありますが、ここをリビングバイブルで読むと
御言葉によって自分自身の本当の姿を知らされる。
とあります。 神の目に映る姿を知らされるのです。 メスを入れてみないとわからない、組織を取って検査しないと・・・本当の病気の姿がわからないのです。 同様に、御言葉は私たちの心に分け入り、心の奥底までも調べられるのです。
御言葉を読み、聴き始めると、御言葉が心に引っかかってくる。追いかけてくる、追い詰められる。そして、御言葉の前に降参せざるを得なくなるほど、追い詰められていくのです。 これこそが、神の言葉の働きなのです!
メスを入れるのは痛い、怖い、避けたい、でも何故そうするのですか? 「生かすため」であり、命を救うためだからです。
私たちは、神の言葉に触れる前は、自分は結構良い人間だ、善人だと思っていたのではないでしょうか。しかし、剣である神の言葉に触れると、自分の隠れていた、奥底にある罪というものがえぐり出されます。罪を罪とも思わなかった者が、何と自分は罪深く、醜い者だと示されます。こんな自分を見るのはうれしくない、いや、見たくない、痛い、苦しい、辛い。 けれども、罪は光に照らされ、明るみに出される必要があるのです。
自らのけがれ、醜さ、破れが自覚されなければなりません。それがなければ、メスの入刀による患部の摘出はできない。真の悔い改めはできないのです! 罪が赦され、祝福されるためには、何より神の言葉によって、罪が自覚させられること、この経験なしには赦し、きよめ、喜びは自分のものにはならないのです!
「若い父親のための10章」という書物の中に、「注文の祈りは意味がない。子供のために祈るのではなく、子供の存在を感謝して祈る」。また、「妻を変えてくださいではなく、自分を変えてください、と祈るべきです」。とありますが、教えられる内容だと思います。
第四番目は「心の考え、はかりごとを判別する」
これは、13節につながる内容です。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
神の前で隠れおおせるものはない、すべては裸で、さらけ出されている、とあります。
改めて、神さまは、何でもご存じなのだ、ということを思わされます!
私たちは、罪と、その結果である永遠の死から救われ、祝福された人生へと導かれました。そして、今度は、私たちが受けた救いと祝福を、周りの人たちに与えていくことを、神様は望んでおられるのです! 周りの人を愛し、神様から頂いた愛を、幸いを、与えていくことができるように、私を変えてください! と祈っていこうではありませんか。 いつまでも、自分で自分を握っていたのでは、変えられません。 今年、教会に与えられたみ言葉を聖霊の助けによって、ひとり一人にふさわしく実践できるように祈っていきましょう。 ローマ12:1
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」
私たち自身を、自分が持っているものを、信仰をもってささげるときに、神様は、御手の中で、祝福して用いてくださり、大きな喜びを与えてくださるのです。