2024.7.28 テサロニケ人への手紙第一1章1-10節
パウロという人が、各地の教会や信徒に書き送った手紙のうち、13通が新約聖書の中に納められています。今日からしばらく見ていくテサロニケ人への手紙もそのうちの一つです。
(1)あいさつは祈りから
パウロの手紙は、いつもあいさつと祈りから始まります。1節
パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
まず、「(神の)恵みと(神からの)平安があなたがたの上にありますように。」と祈り、感謝の祈りへと続きます。 2-3節
私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
パウロは、一つ一つの関わりを持って来た教会のために祈り、また関わりを持っていない教会の人々のためにも、祈っていました。 特に今回の、感謝の祈りの内容はテサロニケ人たちの①信仰の働き、②愛の労苦、③キリストへの望みの忍耐、についてでした。
(2)信仰、愛、希望
まず「信仰の働き」について。働き=行い であり、この言葉は一見、矛盾したように聞こえます。なぜなら、プロテスタントの中心教理は「行いではなく信仰」だからです。信仰と働きは相いれないもの、と捉えられがちです。しかし、明確に理解しておかねばならないことは、信仰を持つときは、ただ信じるだけでいいのですが、信仰を持ち続けて行く時には、行いが伴うはず、と 聖書は語るのです。ヤコブの手紙2章17節には、こうあります。
「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは死んだものです。」
第二に「愛の労苦」とあります。これは、教会内外の人たちに対する愛です。愛には、労苦が伴います。「愛しています」という言葉だけの愛を、聖書は否定します。第一ヨハネ3章18節
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
私たちが教会で何らかの奉仕をするとき、また誰かのために何か助けになることを行なう場合、その動機はただ、「キリストの愛」「キリストを愛するゆえ」であるべきなのです。人から良く見られたいなどとの理由からであれば、その奉仕・働きを神は喜ばれないのです。私たちが、神に喜ばれるために必要なことは、唯一「信仰」だけなのです。 へブル人への手紙11章6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
キリストが、私の罪のために死なれたことを信じる、それこそが神が喜ばれること! ですから、神に受け入れられるために、何かをするのではないのです。 ただ、神が、キリストにあってこんな罪人の私を受け入れてくださったことを喜び、感謝して歩んでいくこと、すると、自然にこの神様のために、何かさせて頂きたいという思いが湧き上がってくるのです。その思いを大切にして祈っていけば、神様がなすべきことを教え、導いてくださるのです。
そして、三つ目は、「主イエス・キリストへの望み」とあります。これは、主イエスが、私たちのために戻って来られる、天から来られるという希望です。第一コリント13章13節には、
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
とあります。信仰と希望と愛は切っても切り離せない関係で、希望があるからこそ、信仰も強くされ、キリストの愛に満たされるのです。テサロニケの信者たちが、まだ信じたばかりの新しいクリスチャンであるにも関わらず、彼らの間にある兄弟愛と、信仰の働きがあったのは、キリストにある希望があったからなのです。
(3)愛され、選ばれた者
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
と4節にあります。パウロは、テサロニケの人たちが神に選ばれた者たちであることを確信していました。 聖書には、神の選び、という重要な思想があります。そして、この選びというのは100%神の主権に属するものなのです。 「神の選び」には前提として「神の愛」があるのです。それは「神は愛です」という神の本質的な性質から来るものなのです。 私たちが救われたのは、神に受け入れられる良いものがあったり、何か神に愛されることを行なったからでもなく、ただただ神が愛してくださったゆえに、選ばれたのです。 私たちは、むしろ、神に見捨てられて当然のような者! しかし、神は愛であり、私たちがどのような者(罪人)であっても、愛してやまないお方なのです。ですから、私たちは、この神に愛され、選ばれたことを、心から感謝して、喜んで、この神に従って歩んで行く者と変えられていくのです。
(4)信者たちの模範として
目に見える世界だけではなく、信仰によって目に見えない世界も見ているのがクリスチャンなのです。 ペテロは、第一ペテロ1章8節で
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
と言いました。神が、イエスさまの十字架によって私たちの罪を赦してくださったこと。永遠のいのちを賜ってくださったこと。神の国を相続させてくださること。神の子どもとされていることなど、これらはみな、目に見えません。けれども、聖霊がこれらの真理を私たちに啓示してくださるので、信仰によって見ることができるのです!
そういう信仰を持って歩んでいるテサロニケの人たちの姿は、ギリシャ全体の地域にあって、「信者の模範になった」と言うのです。7節
こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
テサロニケの人たちは、自分たちが模範的な信徒になろうとしていたわけではありません。イエス・キリストの十字架の愛に感謝し、感動をもって主に仕えて歩んでいる姿が、結果として、多くの人たちの模範となったのです。
私たちも、ただキリストの愛に感激し、感動をもって、喜んで神に仕え、周りの人に仕えていく時、私たちを通して神の素晴らしさが現わされていくのです。