2024.8.4 テサロニケ人への手紙第一2章1-6
(1)確信をもって
前回1章で、パウロが、テサロニケの人たちの信仰の歩みについて神に感謝の祈りをささげている内容を見ました。 2章では、パウロが自分たちのことについて、どういう歩みをしていたかを、彼らに思い起こさせ、励ましを与えようとする内容です。
このテサロニケの町は現在のギリシャ北部にありました。パウロが第2回の伝道旅行で御霊に導かれて初めてヨーロッパに渡って、最初に伝道した町はピリピでしたが、2番目がこのテサロニケでした。そこで、次のような経験をします。(使徒の働き16章6~10節)
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
パウロはこの幻を見て、これは神の導きと確信して、直ちに示されたマケドニヤへ向かうことにしたのです! 彼は最初、アジアの各地に福音を伝えようとしていましたが、神はその地に行かせませんでした。「禁じられた」「お許しにならなかった」とあります。そして、その後、幻を見たので、彼は確信したのです!
私たちの信仰の歩みの中で、このように神の導きに対して、お従いし踏み出す、ということはとても大切です。常識的に考えて「それは無理、そんなことはできない」と思って、従わなかったら、神は生きておられ、その偉大さ、素晴らしさを体験したり、神の御業を見ることはできないのです!
ペテロは「お言葉ですから」と言って従ったら、網が破れるほどの大漁を経験しました。神が命じられた通り、契約の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に浸った時、河の流れはせき止められて、民は川の中を渡ることができました。
(2)大胆に福音を語る
だからと言って、神の導きに従っていれば、すべてがスムーズに運ぶわけではありません!パウロ自身も今日の箇所で語っている!
1-2節
兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2節には、「私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受け、激しい苦闘の中で、とあります。つまり、パウロたちの宣教旅行は、苦しみと迫害の連続だったのです。
御霊の導きによってピリピの町に来たのですが、そこではパウロとシラスは、人々の扇動により、牢屋に入れられ、またむち打ちに遭いました。しかし、そういう中でも看守とその家族が主イエスを信じました。
確かに主から、「そこに行きなさい。」と命じられたのに、順調に事は運ばなかったのです。しかしパウロは、「むだにはなりませんでした」と言っています。テサロニケの人たちが、そのような苦しみの中でも福音を受け入れて、聖霊による喜びに満たされていたからです。
私たちは、神に従って歩んでいると、必ずこのような信仰の試練が訪れます。神が何かを語られ、それに従おうとすると、それをさせない力が働くのです! しかし、聖書はそうなりますよ、と言うのです。
第一テサロニケ3:3
私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
第二テモテ3:12
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
けれども、パウロがここで言っているように、その労苦は決してむだになることはありません。
第一コリント15:58
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
と言いました。主にある労苦は必ず報われます!2節の中には「苦しみに会い」「はずかしめを受け」「激しい苦闘の中で」と言う言葉が連続して出てきます。しかし、そういう中でも「大胆に福音を語った」と言うのです。
私たちが福音を語ったり、証しをする時、それに対して反対や非難が返ってくると、福音をはっきり語らないほうがよい、という誘惑に陥る場合がある。 耳障りの良い、一部だけ語ればよい。人を不快にさせるようなものは 語らないほうがよい、と考えてしまう。
そこで、福音を明確に語ることを、自分自身で制限してしまう! けれども、私たちは語る時には、大胆に語らなければならない。パウロはいつも、手紙の中で、自分がキリストの奥義を大胆に語ることができるように、祈ってほしいと書いていました。 だから、テサロニケにおいては、パウロは大胆に福音を語ることができたのです。自分が頂いた愛と恵みがどんなにすばらしいものであるか、そのことを大胆に伝えていきたいと思います!
(3)神を喜ばせるために
4と6節
私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
私たちが、人のことを気にしすぎ、相手の反応を気になって、福音そのものを語る事を恐れてしまうことがあります。神が喜んでくださるのは、「信仰」です! キリスト信仰の中心は十字架と復活です! この事を大胆に語っていきたい! 今日のこの箇所では、「語ること」について書かれているが、私たちは、人からほめられたり、人を喜ばせるためではなく、神を喜ばせるために、すべてのことを行うのだ、との考えをもって歩むことが必要であり重要なのです。その結果として人を喜ばせることができるのです。
私たちは聖書信仰に生きています! ゆえに「聖書は何と言っているか」にいつも心を向けていきたいと思うのです。
人からの名誉を受けるためではなく、神に喜ばれる歩みをして、神の素晴らしさ、神の愛を表していきましょう。