神に喜ばれるために
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 1月19日
- 読了時間: 7分
2025,19 テサロニケ人への手紙第一4章1~8節
(1) 主を喜ばせる歩み
今日の聖書箇所の1節には、
終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。
あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
とあります。クリスチャン生活の目的は、ある面「どうしたら神に喜ばれる歩みができるか」と言える。 この4章は、「終わりに、兄弟たちよ。主にあって、お願いし、また勧告します。」という言葉で始まっています。ここからは勧告、すなわち勧めが書かれています。「どのように歩んで神を喜ばすべきか」。すなわち、神に喜ばれるような歩みをしなさい、と勧めているのです。そして2節を見ると、その「勧め」は、主ご自身によって与えられた勧めであり、「命令」であると語ります。
私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
1節には「どのように歩んで神を喜ばすべきか」とありました。そして、ヘブル人への手紙11章6節には明確に
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」
とあり、さらにローマ人への手紙10章17節には、
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
とあります。キリストについてのみことばが「福音そのもの」であり、福音の中心はイエス・キリスト、そして、イエス・キリストの中心は十字架と復活です!
キリストの十字架によって救われ、よみがえりの希望が与えられ、永遠の滅びから、永遠のいのちに移される、信じるだけでそれが自分のものとなる! 考えられないような、神の恵みに感謝し、喜んで生きる者とされた! このような生き方が、神に喜ばれる歩みなのです。
今日の、もう一つのメッセージは「聖くあれ」ということです。今日の中心聖句は3節~6前半
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、
各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、
神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。
ここでは、性的に聖くなければならないことについて語られています。
「聖くする」「聖める」「聖別する」の意味は、旧約聖書にあるように、神だけの目的のために別けられる、ということです。 私たちの性を、神だけのもの、つまり神が定められた結婚相手だけに用いていく、ということなのです。
ところが、テサロニケの町は、他のローマ帝国の支配下の町同様、道徳的にも、性的にも非常に乱れているところでした。 こんなことが公然と言われていたそうです。「快楽のために売春婦を、日頃の性欲のために妾を、相続の子孫のために妻を」 ですから、パウロたちが説く、聖く生きるということは、彼らにとっては、全く考えられないことだったのです。 そこでパウロはこれが、はっきりとした神のみこころであることを教えています。6節後半
なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
神さまは、公平なお方、正しくさばかれる方です!
パウロの時代も、ダビデの時代も、アブラハムの時代も、ノアの時代も、まさに昔も今も、
性的な乱れ、性的な罪は人の世の常であり、私たちの周りにも当たり前のようにはびこり、誘惑となって、襲い掛かって来るのです。
であるからこそ、パウロはこの手紙の中で、4章に来て「終わりに、兄弟たちよ」と言って、勧告、警告を発しているのです。「聖くあれ」「聖さを保て」「不品行を避けよ」「情欲におぼれるな」と。ですから、彼はこう語るのです。7節
神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。
パウロは、神が自分のような者を、神の働きのために選び、召してくださった感動を生涯忘れることがありませんでした。そのことがテモテへの手紙第一1章13~16節に記されています。
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
この箇所は、パウロがどうしても、弟子のテモテに伝えておきたかった内容なのです。
彼は自分が選ばれたのは、優秀だから、最高の学問を積んだから、行動派だから、ではない! 何と言っているか? 私はただ「神のあわれみによって選ばれ、召されたのだ」と。第一テモテ1:2には
信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。
パウロは新約聖書の中の13の手紙を書きました。その中のほとんどは、初めのあいさつで、「恵みと平安があるように」と書いています。ところがテモテの第1と第2だけは、個人に宛てたものということもありますが、「いいか、テモテよ、私はもう少ししたら、殉教するであろうが、最も大切な事として伝えておきたいこと、それはあわれみだ!」と言っているようです。神のあわれみ抜きには、伝道者、クリスチャンとしての歩みはできない、それを忘れてはいけない!と語っているのです。
戦後、東大の総長を務めることになる矢内原忠雄というクリスチャンの学者は、戦時中の昭和17年、体制批判をしたため、教授であった東大を追放され、単なる無教会主義の巡回伝道者となりました。当時、ある教会での説教をされ、その中で、私には2つの自覚がある!と語られました。 一つ目は「私は罪人である」という自覚をもっている、と言うのです。
自分が罪人であることが、わかる人は、謙遜で、柔和な人生が送れる。しかし、私は現実に、自分は謙遜で柔和であることに対して、非常に弱さを持っている。だから、罪の自覚が不十分なのです、と語られました。政府の体制を責め続け「俺は正しい、お前たちは正しくない」という論調は、自らの罪深さを知っている者の言葉ではない。不十分な罪意識の自覚のゆえに、謙遜でない、柔和でないのは、恥ずかしく思う、とそう語るのです。
イエスがマタイ11:28(口語訳)で
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
とあり、 そのあとの29節には
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」
とあります。イエス様は、私の所に来たら、重荷を下ろすことができ、安らぎ、安息が
与えられるよ。でも、自分で重荷を持ち続けたら、つぶれてしまう。不安という重荷、恐れという重荷、死という重荷、それらを自分で背負い続けたら、疲れ、倒れ、滅びますよ! だから、その重荷=不安、恐れを私のもとに持ってきなさい! 私が、あなたがたを休ませてあげよう!と言ってくださるのです。
しかし、それだけではない。柔和と謙遜を私から学びなさい、というのです!
柔和と謙遜に生きられるということは、罪の自覚が明確で、自分は罪人だ、永遠の滅びに行くしかない者なのに、神のあわれみによって、罪が赦され、考えられないような喜び、感謝な生き方が出来る者に変えられたのだ、という事なのです。そう語るのです。
もう一つの自覚は、罪の自覚があるならば、罪は赦されなければならない、罪の赦しは十字架以外にない、であるならば、私には、「宣教の使命に対する自覚」がある、というのです。
矢内原忠雄先生は、罪人としての自覚があるが、自らの罪意識はまだまだ弱い、罪の自覚の深さ、それがあればこそ 主のあわれみの大きさが心に響き、主に喜ばれる信仰者として、歩んで行けるのだ! そう語っておられるのではないでしょうか。
私たちは、常に「謙遜と柔和」を、主イエスから学ぶ信仰の歩みを続けていきたいと思います。