神が与えてくださる平和
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 5月25日
- 読了時間: 6分
更新日:5月26日
2025.5.25 テサロニケ人への手紙第二3章6-16節
(1)私たちがなすべきことは
このところ、毎日米の価格問題が話題になっています。新たに就任した小泉農林水産大臣は、備蓄米を2千円で店に並ぶようにする、と発言しています。相当の覚悟をもって取り組んでくれるのではないかと、期待しています。米は日本人の主食ですから。
私たちの健康を維持していくためには、毎日のきちんとした食生活が欠かせません。
しかし、私たちは体の健康だけではなく、精神的な、と言うより霊的な健康を維持していくことに目を向け、そのための努力を怠ってはならないと思います。心、霊の健康のために、聖書の言葉によって栄養を頂くことが大切であることを、忘れずに、毎日聖書を読んで、祈って、1日を始めて頂きたいと思います。
では、今日の聖書箇所を見ていきましょう。 第2テサロニケ3章6節
兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。
ここで語られているのは、「締まりのない歩み方をするな」ということです。今日読んだ6~16節の中に「締まりのない歩み方」「締まりのないこと」という言葉が3回も出てきます。やるべきことがあるのに、怠けて何もしない、ということです。
そういう人たちは、「主が間もなく来られるのだから、もう何も仕事をしなくてもいいじゃないか」と考えて、他のクリスチャンのたちの世話になって生きていたのです。彼らのことが、11節には具体的に書かれています。
ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
彼らの問題は、ただ仕事をしないというだけではなく、人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていたのです。人の生活に口を出したり、しつこく聞き出すようなことをして、問題を起こしたり、悪影響を与えたりして、まさに余計なお世話をしていたのです。
そういう人たちは、『主の再臨が近いのだから、もう働く意味が無い。』と間違った理解をして、当然やるべきこともしないで、怠惰な生活をしていたのです。
ここで考えたいのは、聖書の言葉、また牧師の語った事を、間違って理解してしまうことはないだろうか、ということです。
私たちの教会はどうでしょうか? 「締まりのない歩み」はしていないと思いますが、「もしかしたら・・・」と思わされたのは、ジョイチャペルではその名の通り、喜びにあふれ、行事も嬉しいこと、楽しいことが沢山あります。 信仰生活は、こういうものなのだ、と思っている人が、いないだろうか? ということ!
「特別に奉仕しなくていいんだ」とか「そんなに熱心に伝道しなくてもいいんだ。それは特別な人のすることでしょう。」と誤解している人がいないだろうか!ということです。
そうではないのだ、と心に刻みつけておいていただきたい! そんなことは言っていません。信仰生活の基本は、「神を礼拝する」こと マタイの福音書6章33節
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
心から神を礼拝し、神の語りかけを受け止めて、示されたら、詩篇100「喜びをもって主に仕えよ」なのです。特に、福音を伝えることは、クリスチャンすべてに与えられた、神からの命令なのです。
しかし、その方法は、ひとり一人それぞれにふさわしいやり方で、行なうべきなのです。 大切なのは、福音宣教のために祈り、聖霊の導きの中で行うということ! これに尽きます。祈り、願い、導きを仰ぐ。 間違えないでください、ジョイチャペルは「感謝と喜びにあふれる教会」でありますが、同時に「神と人に仕え、犠牲を払う教会」でもあることを、忘れないで頂きたいと思います。
(2)神が下さる平和
今日読んだ最後の箇所、16節
どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
また、関連した言葉として、イエスさまの山上の説教、マタイの福音書5章9節
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
「平和」は安閑としていて得られるものではありません。ウクライナでは努力してもなかなか平和が実現しない現状が続いています。
私たちが第一に求めなければならない、最も必要な平和は、個人的な「神との平和」なのです。 しかし、私たちの側では神との平和を作ることはできません。 だから、イエス・キリストが来てくださって、私たちが願えば、神との平和が得られる道を備えてくださったのです。
主イエスは、どのようにして神との平和を作ってくださったのでしょうか?ご自分の命を投げ出して、自分の命を十字架で捨てることによって、私たちに真の平和を、真の平安を与えてくださったのです。そのまことの平和を作り出すためには、大きな、大きな犠牲が払われたことを忘れてはならないと思います。
私たちたちが、いくら努力を傾けても、まことの平和が、心からの平安が作れる訳ではないのです! なぜですか? それは、人間は罪を持っているので、その罪を持ったままでは、平和を作りだすことはできなのです! 長い歴史がそれを証明しています。人間の歴史はある面、平和ではなく、戦い・争いの歴史と言ってもよいでしょう。 いくら、争い、戦いをなくそうと努力してもなくなることはない。どうしてですか? 人間は、根本的に罪人だから、罪の解決がなければ、本当の平和は築けないのです。罪の解決は、神以外になし得ない!だから、私たちは十字架のキリストを見上げて、神との平和を得て、そこから神からの平安を頂いて、頂いた平和・平安を、周りの人たちに分かち合って、まことの平和の輪を広げていくのです。
それが、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子ども呼ばれるからです。」ということなのです。
あなたの存在が、家庭に平和をもたらすのです。あなたの存在が、学校に、職場に平和をもたらすのです。 もう一度16節を見て、お話を閉じます。
どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
これはパウロの祈りです。「平和の主ご自身が、あなたがたに平和を与えてくださいますように。」と「主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」と対になっているのです。
主がともにおられるときに、私たちはまことの平和・平安が得られるのです!
いつもともにいて、私たちに平安を与えてくださる主に感謝して、喜びをもって、従っていきましょう!