恵みの御座に近づこう
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 3 日前
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更新日:1 日前
2026.3.8 ヘブル人への手紙4章14-16節
今日の聖書箇所も、3節と短い所です。まず14節から。
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
イエスキリストが、どうして、偉大な大祭司と言われるのでしょうか。
15節を見ると
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
とあり、私たちの弱さに同情できるお方だからだ と言うのです。キリストは、私たちと同じ人間となって来られ、私たちが経験するありとあらゆる、悲しみや苦しみや痛みや、そういったものを経験されたお方、味わわれたお方です。 イエスさまは、空腹を、貧しさを、疲れを、そして、悲しみ、裏切られることの痛み、人から誤解されることの寂しさを経験されました。 イエスさまは、人々を愛し、一緒に笑い、時には涙を流されました。また、嘆かれ、怒り、憤り、さらに孤独、失望も知っておられました。
私たちが激しい痛みや苦しみの中にある時、人の慰めとか、励ましがありがたいと思う時もあれば、時にはいらだちを覚えさせられることもあります。 自分が、本当に、人にも言えないくらい辛い状況の時、他の人が軽々しく「あなたの苦しみは分かりますよ」なんて言うと「あんたになんか私の苦しみが分かるはずがない。気休めなど言わないで!」などと思うこともあるのです。
しかし、イエスキリストが経験された苦しみ、痛み、その一つ一つを思う時、私たちが経験する苦しみや痛みは、比べものにはならないのではないか、と思わされるのです。
でも、私たちが苦しい時、辛い時、イエスキリストは私たちひとり一人のそばに寄り添って、「辛いね、悲しいね、痛いね、苦しいね、わかっているよ、知っているよ」と言ってくださるお方なのです。 一緒に泣いてくださるお方、それがイエスキリストなのです!
だから、人には持っていけないけど、イエスさまには持っていける、イエスさまだったらわかってくださる、 それが、イエスキリストこそが偉大な大祭司である第一の理由です。
第二番目の理由は、15節の後半
すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
このお方は、私たちと同じように試みに会われたお方だからです。
私たちは、毎日様々な試みに会います。それも誘惑という形の試みを受けます。 この世は神なき世界です。神を無視し、神を拒み、神をあざ笑う世界です。神なき価値観ですべてが動いています。神より金! 神より自分の利益! 神より自分の楽しみ! それがこの世というものでしょう。
船は水の上に浮かんでこそ役割を果たすことができます。水が船の中に入ってくると、船は沈んでしまいます。役割を果たせなくなります。
私たちクリスチャンは、この世に生かされています。しかし、この世が私たちの中に入ってきたら、私たちは信仰の破船にあい、沈没してしまうのです。
この世は、私たちを神さまから引き離そうとするものに満ちています。誘惑は私たちの欲に働きかけて、その欲がだんだん大きくなって、いつの間にか、神様が見えなくなってしまうのです。神の言葉が素通りし、全然心に響かなくなってしまうのです。この世の価値観が、私たちの中に入り込んで、この世の価値観で物事を判断してしまうのです。
誘惑を受けるのは避けられません。どこにいても、私たちに誘惑があります。しかし、その誘惑に機会を与え、誘惑と共に行動してしまうと、それは罪につながっていくのです。
ある女の子が、「悪魔があなたの心をたたいたらどうしますか?」と問われて「イエスさまに代わりに出て頂きます」と答えたそうです。 素晴らしい答えです。 私たちも誘惑を感じたら、自分で一生懸命頑張って、誘惑に勝とうとしないで「イエスさま、出てください。イエスさま、助けてください」そう言って、この方を呼び、この方により頼むとき、イエスさまが誘惑に勝利させてくださるのです!
第三番目に、「このお方は罪は犯されませんでしたが」とあります。
罪は犯されなかったから、このお方は私たちにとって、偉大な大祭司なのです。
私たちを助けることのできるお方は、罪のないお方だけ。 私たちはみんな生まれながらの罪人なのです。 いわば、全人類が罪という海の中でおぼれているような状態。おぼれている者は、他のおぼれている者を助けることはできません。 同じように罪の海の中でおぼれている者を助けることができるのは、罪のない者だけなのです。でも、全人類の中に、そのような人は一人もいないのです。神のひとり子が人としてこの世界に来て、全く罪のない生涯を送られたので、罪のない、聖い大祭司であるイエスさまこそが、私たちを助け、救うことができる唯一のお方なのです!
このような、偉大な大祭司によって、罪が赦された私たちが、なすべきことは何でしょう? 今日の箇所から教えられる、2つの勧めがあります。
第一は14節の最後
「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
信仰の告白とは、洗礼式の時だけにするものではありません。 私たちの信仰の告白は、機会を作ってでもするべきなのです。 イエスキリストにある喜び、平安、希望を、私たちは友人に、家族に、同僚に、同級生に告白する、証しする、それは私たちの信仰の歩みにとって、とても大切なことです。信仰は、人前でそれを明らかにするとき、強められ、成長し、堅くされていくからです。
もう一つは、16節後半
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
「恵みの御座に近づこう」ということ。
イエスさまが十字架で息を引き取られたとき、神殿の中の聖所と至聖所との間を仕切る分厚い幕があったのですが、その幕が突然、上から下までビリビリッと裂けてしまったのです。それはイエスキリストの死によって、神と人を遮るものはすべて取り除かれた、大胆に神に近づく道が開かれたことを意味しているのです。
至聖所には、契約の箱が置かれていて、その蓋には、金で作られた一対のケルビムと呼ばれる天使が羽を広げて向かい合っているのです。このケルビムが顔と顔を合わせて向き合っているその間の空間、そこが最も聖なる場所と言われ、そこに神は臨在され、そこから神は語りかけると言うのです。実は、その場所、ケルビムが向き合っているその場所を、「恵みの御座」とか「憐みの御座」と呼んでいたのです。 それを、へブル書の記者はここで述べているのです。16節
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
もはや、神と人を隔てるものはすべて消えて、私たちは神の恵みを、神のあわれみを大胆に、慕い求めることができるようになったのです!
あの十字架こそが、神の私たちに対する、あわれみと恵みのしるしなのです。だからへブル書は、私たちに、大胆に恵みの御座に近づこうではないか、と勧めるのです。
神さまは、大胆に、躊躇しないで、「いや、私なんか、そんな・・」としり込みしないで、近づくことを求めておられるのです。 遠慮して、「私なんか」と躊躇するとき、それは却って、神さまを悲しませるのです。「おりにかなった助けを受けるために」とあります。神さまはおりにかなった助けを、私たちに、あなたに与えてくださるお方なのです。
ですから私たちは、大胆に恵みの御座に、憐みの御座に近づきましょう。 ありのまま、弱さを持ったまま、不安を持ったまま、悲しみを、辛さ、苦しみを持ったままで。
偉大な大祭司、神の子キリストは、私たちの弱さを本当に思いやることのできるお方。私たちと同じ試みを受け、勝利されたお方。 私たちは、罪のないイエスキリストに近づき、このお方にすべてを打ち明けて、すべてを知って頂けることができるのです。
恵みとあわれみに満ちておられる、この神さまに大胆に近づいていきましょう。