祈りを教えてください
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 2 日前
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2025,7,13 ルカの福音書11章1-4節
人間というものは、祈る存在です。おそらく他の動物は祈らないでしょう。それだけ人は自分ではどうにもならないことがあると知っているので、人間の力を超えた存在に祈り、願い、頼ることをするのでしょう。 日本人が毎年、お正月になると初詣に行き、今年一年の家内安全、無病息災、商売繁盛、などを祈りに行くことがそのことを現していると思います。
これらのことを願い祈るのは、当たり前のことと言ってもいいでしょう。
しかし、私たちクリスチャンが、そういうことだけしか祈り、願わないとしたら、それは違うのではないかと思います。つまり、自分のこと、自分に関することだけを願っている祈りで、いいのか、ということです。
今日の聖書箇所は、弟子の一人が、イエスさまに私たちにも祈りを教えてください、と願ったところから始まります。1節
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
イエスさまがいつも祈っておられる姿を見ていた弟子の一人が「私たちにも祈りを教えてください。」と願うのです。 この時にイエスさまが教えられたのが「主の祈り」と呼ばれているものです。2節
そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
ここでまず、注目したい言葉は「こう言いなさい」です。 口に出して言う、語る、言葉を出す、祈りはそういう具体的な行動なのだと言うのです。心に思い浮かべていることではない! 心の中の瞑想ではないのです。具体的に言葉に出して祈る、これがイエスさまが、まず、教えてくださった祈りなのです。
祈りは、形式ではありません。言葉による交わりなのです。心から出る言葉です。ですから、祈りにはそこに実感がこもり、もし悲しければ、神さまに対する祈りもまた悲しい祈りになるでしょう。喜んでいれば、喜ばしい祈りになるでしょう。だから、悲しい時には慰めを、喜ばしい時にはさらに感謝が増し加えられ、やりきれない時には励ましが与えられるのです。
イエスさまは、まず、「父よ」と呼びかけて祈れ、と言われました。祈りは誰に対して祈っているか、が重要なわけです。私たちは、実体のない、あやふやなものに向かって祈っているのではありません。 イエスさまも、よく「父よ」と言って祈られました。また「アバ、父よ」と呼び掛けて祈ることもありました。 「父よ」と呼びかけて祈れ、と言われたこの「父よ」は、当時話し言葉として使われていたアラム語で「アバ」という言葉であり、ユダヤ人の家庭で小さい子供から大人に至るまで、自分の父親を親しみを込めて呼ぶときに使われていた言葉なのです。今で言ったら、「お父さん」「パパ」「お父ちゃん」でしょうか。
確かに、神は造り主であり、全能の神です。しかし、同時に、ひとり子イエスさまをこの世に遣わし、私たちを罪から救うために、御子を犠牲にするほど私たちを愛してくださり、神の子としてくださったお方です。ですから、私たちもイエスさまと同じようにこのお方を「お父さん」「お父様」と呼ぶことができる者とされているのです。
そして、具体的には、まず「御名があがめられますように」と言われました。名前はその人自体を現しますから、「御名があがめられますように」とは、「神ご自身があがめられますように」ということです。また「あがめられますように」と訳された言葉は、「聖くされますように」という意味でもあります。ですから、神の御名が聖いものとされる、ということは、神の御名が汚されないことで、神の戒めを守り、神に従うことによってなされるわけです。要するに、みんなで神の御心に従う者となるように、と言う祈りなのです。
第二は、「御国が来ますように」ということ。「御国」とは、「神の国」です。神の国とは、神の支配という意味です。悪魔の支配下にあって、罪を犯している人たちが、神の支配下に入って、神をあがめるようにならなければ、神の御名はあがめられません。
ですから、この祈りは、まず一人でも多くの人が救われることの祈りでもあるのです。
3-4節は私たちについての祈りです。3節
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちに関することの最初は、私たちが生きていくために必要なものを与えてください、との祈りです。 信仰生活において、身に着けるべき大切な資質は「謙遜」です。神に喜ばれる信仰的な姿勢は、その考え方、判断において謙遜な心をもって物事に対処していくということです。
生活に必要なものは、自分が一生懸命働いて、収入を得て、手に入れたものだ。住む所、食べる物、着るものに不自由しないのは、自分が頑張っているからだ。 確かに、そういう面はあるでしょう。しかし、忘れてはならないのは、すべてのものは神の恵みによって与えられている、ということ! 元気で働ける健康も、生活に喜びを与えてくれる家族も、友人も、信仰も。みんな神から与えられたもの!私たちは神によって生かされているのです。そういう謙遜な信仰の表明、それがこの祈りなのです。
私たちについての祈りの第二番目は、4節前半
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
すべての人間は、みんな罪人です。「罪の支払う報酬は死です」とあります。罪は裁かれねばなりません。その裁きは、永遠の死、永遠の滅び、永遠に地獄の苦しみの中に投げ込まれるのです。考えただけでも恐ろしい状況です! そんなことを考えたら、すべての人が、裁き主なる神さまに対して「神さま!私たちの罪をお赦しください」と祈らずにはいられないでしょう。
しかし、愛の神さまは、そんな罪人の私たちを憐れんで、私たちの罪を赦すために、ひとり子イエスさまをこの世に遣わして、私たちの身代わりとして、このイエスさまを十字架で死刑にして、罰せられたのです。 イエス・キリストの十字架の御業によって、私たちの一切の罪が赦されて、永遠の刑罰を受けなくてもよい者としてくださったのです! 払いきれない罪の代価を、イエスさまが命をもって支払ってくださったのです。 このことが、本当に、どんなにすごいことか、素晴らしいことか、理解できたら、自分に対して負い目のある者、言葉で傷つける者、悪口、陰口を言う者、嫌な思いをさせる者、冷たい態度をとる者、足をひっぱる者を赦すことができるでしょう。
自分が、どれほど赦されたかを理解している者は、人を赦すことができるのです。
・・・けれども、人が人を赦すというのは、本当に難しいことです!あんな仕打ちをした人を、どうして赦せるんですか!と思うのです。人間の意志の力では、できないのです。赦したと思っても、忘れないのです。赦しは、神の助けによってしかできないのです。だから、頼って、この祈りをするのです。
最後です。4節後半
私たちを試みに会わせないでください。
私たちは弱い者です。悪魔は、私たちの弱さをよく知っていって、そこを攻撃してきます。だからこそ、私たちは、悪魔に負けないくらい、自分の弱さを知っておく必要があるのです。弱い者であるからこそ、神さまに頼らなくてはならないのです。ですから、この祈りは、誘惑に負けそうになる自分の弱さを、神さまが守ってくださるように、との祈りでもあるのです。
神さまが聞いてくださる祈りは、御心にかなった祈りです。そのことについて、教えているのが今日のこの祈りです。この祈りの内容をしっかり理解して、自分の祈りとして、心を込めて祈るなら、それこそ、御心にかなった祈りとなるのです。