あなたの隣人を
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026,7,26 ルカの福音書14章1-6節
今日の聖書箇所は病の「いやし」を通して、神の愛、キリストの愛が示される内容です。まず、ルカの福音書14章1節から
ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、
みんながじっとイエスを見つめていた。
「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき」?
パリサイ人はイエスさまに反感を持ち、批判し、ついには殺そうとする計画までした律法学者と同じ立場の宗教指導者です。
イエスさまの方も、ルカ11章でパリサイ人、律法学者に対して「わざわいだ」と6回も繰り返し、マタイ23章では「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」を7回も繰り返して非難するのです。まさにイエスさまとパリサイ人とは敵対関係―相容れない関係―にあったのです。
けれどもイエスさまは、そういう関係中でパリサイ人の家で食事の席についたのです。
ルカ7:36からの箇所に、パリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスさまを招いた、とあり、11:37からでは、ひとりのパリサイ人が、一緒に食事をしたいと願った、とあります。
そして、恐らく今日の箇所でも招かれたのだろうと推測できます。
ではなぜ、彼らはイエスさまを「招いた」たり「お願いした」のでしょう? 聖書にははっきり書いてありません。それが好意からか、あるいは悪意からなのかはわかりません。今日の箇所はどうであったのか、深く見て行けばわかると思います。1節後半~2節
みんながじっとイエスを見つめていた。 そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
「水腫」。どんな病なのでしょう? 簡単に言うと「むくみ」のことで、それ自体が病名ではなく、症状のことで、血管から水分が出て、周りの組織体にたまるわけで、心臓病や腎臓病の人に見られる顔面や上下肢体のむくみのことを指して、そう言われていたのです。
水腫は、当時の律法学者たちの考えでは、不道徳をしたことへの神からの罰であるとされていました。ツァラアト=重い皮膚病が神に呪われた病気とされていたように、当時の人間の知識では治らない病気、治すことの難しい原因不明の病気には、とかくこのような断定が人間によって下されていました。
ですから、この水腫の人は、大きな悩み、苦しみの中に置かれていたことでしょう。 しかし、この水腫というのは、別に伝染するわけではないので、人の中へ出て行くことが禁じられてはいませんでした。ですから、ここに登場してくるわけです。それも「イエスの真っ正面に」その人がいたのです。 そして、そこにいた人たちは「じっとイエスを見つめていた」。 「イエスは彼をいやされるだろうか?」「安息日なのにいやしの働きをするのか?」・・・安息日に関する規定は、律法の中でも、最も重要なモーセの十戒の中にこうあります。出エジプト20:8-10
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
「どんな仕事もしてはならない」のです! しかし、安息日であっても、生きていくためには食事を作ったりすることは必要なわけです。そこで、律法学者は、こういうことまではしてもよい、といって細かい規則を作りました。それを守っていれば、律法を破ったことにはならない、と教えたのです。
そのためパリサイ人は、それを堅く守り、例えば「安息日の道のり」という安息日に歩いてよい距離が決められている規則は、厳格に守りました。 そして、医療行為でも、この程度のことは許されるけれども、このことはいけないという枠を決め、パリサイ人はそれを厳格に守っていたのです。
マタイ22:34~には、律法学者が「律法の中で大切な戒めはどれですか」と尋ねられて、
イエスさまはこう答えられました。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
「神を愛し、隣人を愛する」 聖書全体がこの戒めにかかっていると言うのです。 今を生きる私たちも守るべき大切な教えでもあります!
・・・考えてみたい。「隣人を愛せよ」 本当にこの言葉通り生きているでしょうか? 最も近い隣人はだれですか? 妻や夫なのでは! あるいは親、子ども!
「エー、あんな自分勝手な夫、愛せませんよ!」
「あんなわがままな妻なんか、愛せませんよ」 と思いますか?
私が教員として働いていた時代、同僚が奥さんからこんなことを言われたと話したことがありました。「もしも、生まれ変わってきたら、あんたとは絶対に結婚しない!」 冗談半分かも知れませんが、夫婦として、満足していない思いがあったのかもしれません。
聖書は、理由があったら、愛さなくてもいいとは言っていません!
みなさん、ご主人を愛していますか? 聖書は妻や夫についてこう命じています。 エペソ5:22-25
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
妻たる者、夫たる者、毎日でもこれを読んで、心に刻んで過ごしていったら、すばらしい、麗しい夫婦として歩んで行けるのではないでしょうか。
今日の箇所に戻ります。 パリサイ人の家では、イエスさまが安息日にいやしのわざをなさるかどうかを、じっと見つめていました。
ヨハネ8章で、姦淫の現場でとらえられた女性を連れてきて、律法学者、パリサイ人がイエスさまに「律法では石打ちの刑にしろと命じていますが、あなたはどうしますか」と迫りました。その時と同じような状況です。 いやさなかったら、愛のない者だ、いやしたら律法を破る者だと、どちらにしても、訴える口実にするわけです。そこでイエスさまは彼らに反問するのです。 3節
イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。
彼らは答えられずに黙っていました。 そこで、イエスさまは病をいやして彼を帰しました。
そして、再度、彼らに言うのです! 5節
それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
律法学者、パリサイ人は、自分たちは律法を厳格に守っていると言いながら、一方では、それを守らなくてもいいように、抜け道を用意していたのです。
そのひとつが、今ここでイエスさまが指摘した内容なのです! だから、イエスさまはマタイ23章で「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と7回も、その偽善ぶりを指摘したのです。
彼らの偽善は、律法の中で最も重要な神への愛と人への愛を無視して、ただ律法を形式的に守っていただけだったのです。 どんなに熱心な信仰を持っていても、悩んでいる人、苦しんでいる人の悩み、苦しみが一向に自分の悩み、苦しみとなっていなかったのです。
私たちも、知らず知らずのうちにパリサイ的に、律法的になっていないでしょうか?
どんなに熱心に、礼拝を守っていても、どんなに進んで奉仕をしても、どれほど多くの献金をしても、Ⅰコリント13:1-3では、どんなにすばらしい信仰、賜物があり、持ち物全部を施したとしても、愛がないなら、何の値打ちもない、何の役にも立たない、と明確に語るのです。
聖書の中で最も大切だと言われた、「心から神を愛し」、この神さまから愛を頂いて、具体的に「隣人を愛する」歩みをさせて頂きましょう!