末席に着きなさい
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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更新日:33 分前
2026,8,2 ルカの福音書14章7-11節
今日の箇所は、聖書の中で繰り返し語られている、聖書が主張する原則が語られています。
いつものことですが、イエスさまのたとえ話は非常にわかりやすい。そして、その話をした真意が最後に的確に語られているのです。それがルカの福音書14章11節
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
この原則を、イエスさまが、今、目の前に起こっていることを取り上げて、具体的に教えておられるのです。7節
イエスは、客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された。
場所はまだパリサイ人の指導者の家です。イエスさまだけでなく、何人もの人が招かれていることがわかります。招かれていたのは、恐らくパリサイ人や律法学者でしょう。彼らは、自分たちは社会的な地位があり、律法を厳格に守って、道徳的にも尊敬されるべき者だ、と自負していた人たちです。
だから、自分こそが食事の席では、上座に着くのが当然と思っていたわけです。そこで、「招かれた人々が上座を選んでいる」ことにイエスさまが気づかれて、披露宴のたとえを語られたのです。8-10節
「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
ここでイエスさまが語っておられることは、婚礼の披露宴に招かれたときの、礼儀作法のことではありません。このたとえ話によって、霊的な真理を教えておられるのです!
イエスさまが教えておられる大切な真理は、自分を低くするとは、パウロがローマ7:24で告白しているように、
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
と、徹底的に、罪人である自分のみじめさを自覚することなのです。
自分は罪人であり、みじめな者であると、本心からそう思うことが「自分を低くする」ことなのです! そして、そのことが本当にわかると、それまでわからなかったことが分かるようになります。 イザヤ57:15にはこうあります。
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす。
この聖い、聖い神さまが、私たちと共にいてくださる!へりくだった人と共に住んでくださると言うのです。
人となって、この世に来てくださった神の御子が、私たちに仕え、私たちの悩み、苦しみを共に負ってくださった。 そして、このお方は十字架で私の罪を背負って、その罪のために刑罰を受けられ、殺され、墓に葬られましたが、三日目によみがえり、天に上り、今は、聖霊として私たちのうちに住んでおられ、私たちを慰め、励まし、力づけ、助けてくださるのです。
あの水腫を患っていた人を抱いて、いやされたイエスさまは、今も私たちのすぐそばにいて、私たちを抱きしめて、私たちを助けてくださるのです。 そのためには、自分が水腫を患っている事実を隠したり、それを恥じたりせず、イエスさまの御前に出たように、私たちも自分がどうしようもない罪人であり、いかに価値のない、みじめな者であるかという事実をしっかり認めること、そして、そんな者であったにも関わらず、その罪を赦してくださったイエスキリストに、心から感謝して、お頼りして歩んで行くことが大切であり、必要なことなのです。
しかしながら、私たちは、罪赦された罪人である、ということも忘れてはなりません。過去の罪も、現在の罪も、将来の罪もイエスさまの十字架の恵みによって赦されています。けれども、私たちがこの地上で生きている限り、まったく罪・過ちを犯さなくなるというわけではありません。
私たちは生れながらの罪人で、物事を常に自己中心に考えて行動してしまうものだということを知らなければなりません。 自分自身のことを振返ってみて、どうでしょうか?
クリスチャンであっても、なくても私たちの最も大きな問題は、人間関係でしょう! それまで良い関係でいたのに、何かのキッカケで、なんとなくギクシャクして、気まずくなってしまう・・・そして、その原因は、相手の方にあるのだ、と断じてしまうのです。
これこそが「自分を高くする者」の姿であり、相手を下に見て「私は悪くない」と言い張る、自分に言い聞かせる!まさに自己中心、これが罪なのです!
イエスさまは、こんな身勝手な私たちの罪のために、十字架にかかり、私たちを贖い、救ってくださったのです。そうでなければ、私たちは永遠に滅びる以外なかった者であるということを、しっかり覚えておくべきでしょう。
私たちは何気ない言葉によって、相手を深く傷つけてしまう事もあります。親切心から行ったことでも、相手にとっては余計なことをしてくれた、と憤慨させてしまう事もあります。私たちはそういう意味でも、知らないうちに罪を犯してしまう罪人なのだ、ということを自覚する必要があるのです。
これらのことが、頭だけではなく、本当に心からわかったら、自分がいかに罪人であり、価値のない、みじめな者であるということを、受け入れられるのではないでしょうか。
神の御子であるイエスキリストが、人間となってこの世に来られたこと以上のへりくだりはありません!
このことも、頭でわかっているだけではなく、本当にそのことが分かれば、私たちも自分は罪のゆえに、滅びる者でしかなかったとわかれば、神と人の前にへりくだるのは、そんなに難しいことではないでしょう。
ルカ18:9-14には、パリサイ人と取税人の祈りのたとえをイエスさまが語られました。
パリサイ人は、自分が敬虔な生活をしており、汚れた取税人のようでないことを感謝します、と祈りました。しかし、取税人はただ「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈るだけでした。そしてイエスさまはこう言われるのです。「この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
主に喜ばれる人は、主の御前にへりくだる人です。人はうわべを見ますが、主は心をご覧になります。
自らの罪深さを自覚して、主の前にへりくだって、感謝をもって、主の十字架を仰ぐ時、
「自分を低くする者は高くされる」とのみ言葉が成就するのです。
最後に2つの箇所を読んで、お話を閉じます。 箴言18:12
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。
第一ペテロ5:5~6
みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。