生きた供え物として
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 3 日前
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更新日:2 日前
2026.1.4 ローマ人への手紙12章1~2節
新年の最初の聖書箇所は、ローマ人への手紙12章に導かれました。12章1節
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
(「神に受け入れられる」とありますが、私が持っている8種類の訳の聖書のうち、7種類は「神に喜ばれる」となっています。)
「そういうわけですから」で始まります! どういうわけ? 1~11章全体を受けて、と考えられます。神の救いに与かった私たちは、そのことを知ったのですから、それを受けたのですから、神に喜ばせて頂いたのですから、じゃあ、12章から最後までは、今度は私たちが何をすべきか、私たちはどのように生活して、神に喜んで頂くことができるのか、いかにして、神の栄光を現わすことができるのかを、書き進めるのです。
パウロは親しみを込めて語りかけます。「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」 モーセは命令し、パウロはお願いする、と言われます。 パウロは、お願いします、と非常にへりくだって、懇願するのです。決して、高い所から命令するのではなく。 それはパウロが「神のあわれみのゆえに」と書いてあるように、彼は神のあわれみのゆえに、生きている人物だからなのです。
パウロは、自分は神の前に立てる何物も持っていない、自分にあるのは、ただ罪の数々。そんな私には、ただ、神のあわれみ、神の恵み、すなわち、受けるに値しないものに対する、神の一方的な恩寵、これだけが私の土台、私の出発点、私の頼りだ、と言うのです。 だから、「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」と語るのです!
私たちが救いを頂き、その救いを喜び、神のあわれみと恵みに生かされるとき、私たちが神に喜んで頂くために何をなすべきか。今日は1‐2節のみを見たい。
1,からだをささげなさい
1節「あなたがたのからだを・・・・ささげなさい。」とあります。
イエスさまが2000年前に、まず、私たちのためにご自分のすべて、ご自分の命までも捨てて十字架にかかって死んでくださった、だから、私たちのために、救いが準備されたのです!
イエスさまが私のために、いのちを、そのすべてをささげてくださった以上、私も、私自身を神にささげます、と応答すべきなのです。 ここで使われている「ささげなさい」という言葉は、「ある人のそばに置く」という意味があります。自分の側に元々あるものを、別の人の側に移す、ということ! これまでは、自分のそばにおいて、いつでも自分の好きなように使っていた、生きてきた。それを、別の人の側に置く。そして、それはあなたのものです、どうぞご自由にお用いください、と差し上げることなのです。
では、神の側に移して、あなたのご自由にお用いください、と言って、差し出すものは何なのでしょう。 私たちが神にささげるもの、それは心だ、と思いますが、ところが、パウロはなんと、「あなたがたのからだを」とわざわざ、からだと言うことばを使うのです。 彼は、私たちに、あなたの心だけじゃない、あなたのからだをささげなさい、その意味は、私たちのすべてをささげなさい、と言っていることを意味するのです。
私たちのからだをささげる、それが神に喜ばれる、霊的な礼拝だと言うのです! 今日もこうしてみなさんと一緒に礼拝をささげていますが、この礼拝というのは、私のからだ、私のすべてをあなたにおささげします。どうぞ,この1週間自由にお用いください、という、そういう時なのです。
霊的な礼拝=当然の礼拝とは、自分自身を、神にささげる=「献身」ということ! 「代価を払って買い取られた」私たちは神のものなのです!
でも、人は愚かなのですぐに忘れてしまうのです。だから、毎回の日曜礼拝で、それを思い出し、この礼拝の中で、ささげるという思いと行為によって、「献身」の思いを新たにして、毎週、歩み出していくのです!
アメリカの昔の有名な伝道者のD・Lムーディーという人がいました。 彼があるとき礼拝に出て、献金のかごが回ってきたとき、1枚の紙きれを用意して、その紙にD・Lムーディーと名前を書いて、献金かごに入れたそうです。本当は、自分自身を献金かごの中に入れたかったのですが、入らないので、紙に名前を書いてささげたというのです。自分をささげます、献金というのはそういう意味があるのです。
毎日が霊的な礼拝! 日曜礼拝において、自分自身を主にささげ、6日間は置かれたところで、主の栄光を現わす。 まさに毎日が霊的な礼拝であり、それが当然なすべき礼拝なのです!
神に用いられながら生きる! これがクリスチャンの歩みなのです。
旧約聖書の時代は、動物をささげました。特に過越しの祭り時は、1家族1頭の小羊が殺され、血が流されました。「血が流されることなしに、罪の赦しはない」とあるからです。毎回、おびただしい血が流されました、犠牲がささげられたのです。
しかし、新約聖書の時代は、イエスさまが永遠の小羊となって身代わりに血を流してくださいました。 だからパウロは勧める、お願いするのです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
犠牲をささげるということは、自分にとって痛くも、かゆくもないことなどではないのです!
私たち自身をささげる! 全存在、全生活をささげていくのが、クリチャンの歩みなのです。
2,この世と調子を合わせるな
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
からだを神にささげ、生活のすべてをもって神の栄光を現わそうとして、礼拝の日々を過ごすとき、当然の結果として、その生き方、生き様は、この世とは異なったものになってきます!「この世と調子を合わせてはいけません」 この世というのは、神に背を向けて、自分勝手に生きる、という世界です。 そのような、神に背中を向けるこの世とは、神を信じて生きる私たちとは、当然のことながら、調子が合わないのです。 私たちはイエスさまを知るまでは、この世の考え、流行に生きていました。それに流されながら、敏感に生きていました。しかし、キリストを信じる、知る、と言うことは、この世から召し出される、ということであり、今は、私たちはこの世と違うものに敏感にならねばならないのです。パウロはこう勧めます。
「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」
まず自らをささげることによって、内に住んでくださっている聖霊が変えてくださるのです。どういうふうに? 思考が、考え方が変わります。どう変わるのか? 神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、喜ばれ、完全であるのかを、見分けることができるように!!
心の一新によって、自分を変えて頂いて神に喜ばれることは何かを考えて生きる者としてくださるのです。
「主よ、私はあなたのものです。どうぞ、あなたのみ心の通りに、あなたの喜ばれる、あなたに受け入れられる歩みをさせてください」と祈って、新しい年も、日々礼拝をささげ、自分自身をささげて歩んでいきましょう。