熱心に仕え、愛を示す
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)

- 2 日前
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2026.6.28 ヘブル人への手紙6章4~12節
小さな子どもは「これ何?」「どうして?」「なんで?」と無邪気に、と言うか、単純に知らないことを知ろうと思って、聞いてきます、質問をしてきますね。 私たちも神さまに関して、聖書に関して、そのような好奇心とか、探究心とかをもって、信仰生活を送っていくということは、とても大切なことであり、失っていけない態度だと思います。
反対に危ういことは、そういった福音が当たり前になってしまって、驚きも、発見の喜びも、神への好奇心も、探究心もなくなってしまって、感謝も感動も喜びもなくなってしまうことです。
へブル書の今日の箇所のすぐ前の所には、初歩の歩みを抜け出して、成熟を目指そうとあります。そして、その後でとても厳しい言葉で、警告を与えるのです。
それは、もしも私たちが成熟を目指さず、耳が鈍くなり、堅い大人の食物を嫌い、初歩の段階にとどまってしまうと、次に待っているものが何であるかを知らせて、目覚めさせようとするのです。へブル6:4~5には
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
とあります。ちょっと堅い文章になっていますが、わかりやすく言うと、イエスキリストによって罪赦され、神の子とされて、永遠の天国への希望が与えられた、ということ。
このようにすばらしい神の恵みを頂いて、クリスチャン生活を送っていた、経験していた者たちが、なんと6節
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
「堕落してしまうならば」と続くのです。 こんなにもすばらしい恵みを経験しながら、しかも、堕落してしまうなら、・・・そんなことが一体あるのでしょうか?
それが「背教」といわれることなのです。背教・・・、神に背中を向ける、神に背を向けて信仰から離れていくこと。
イエスキリストを信じたら、もうあとは大丈夫ではなかったのでは? もう永遠への、天国行きの切符はもらっているのでは? イエスさまを信じたら、もう神さまが離さないのではないのですか?
私たちの信仰は、子猿が親猿にしっかりしがみついていき、手を離してしまったら、危ない目に遭ってしまう、そんな信仰ではありません。危険が迫ったら、親猫が子猫をくわえて安全な所へ連れて行くような、神様が私たちをしっかりと支えて運んでくださる、そのような信仰なのです。
私たちは自力で、頑張って、頑張って神さまにしがみついている間は大丈夫、けれども、もしも、手を離してしまったら救いから落ちてしまう、そうではないのです!
神様が選び、神様が救い、神様が責任をもって私たちを支え、導き、守ってくださいます。 じゃあ、神様が全部してくださるのだから、私たちは何もしなくてもいいじゃないですか! 信じたらあとはもうすべてが順調で、楽ちんでエスカレーターに乗っているように、神様が運んでくださる・・・。でも、それでいいのでしょうか?
いいえ、聖書は決してそうではないと教えるのです! また、実際に私たちの日々の出来事を通しても、信仰生活はそうではないことを経験していると思います。
聖書は、信仰生活は戦いだと言っています! 与えられたこの信仰から、離そう、離そうとする力がいつも私たちに働きかけてくるのを、私たちは知っています。
イエスキリストを信じてからも、私たちには古い性質、自我とか、肉が残っていて、以前の信じていなかった生活に引き戻そう、引き戻そうとする力が私たちの内側に働くのです。また、この世は様々な形の誘惑で、神から、神の愛から引き離そう、引き離そうという力に満ちています。それが私たちに働く悪魔の、悪霊の力なのです!
第一ペテロ5:8
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
私たちはこの警告の言葉を真剣に受け止めねばならないと思います。悪魔が、ライオンが獲物を求めて歩き回っているように、私たちを狙っている、と言うのです。だから、目をさましていなさいと忠告するのです。
へブル書は信仰の困難や迫害の中にいるクリスチャンを励ますために書かれました。厳しい警告のあとで、息詰まる緊張の中で、口調を変え、安心させるように語り出すのです。9節
愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
あなたがたは、堕落するようなクリスチャンではありませんよね。 そして、この手紙の読者たちが、これまでしてきた、そして、今、現にしていることを取り上げるのです。10節
神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
この読者たちが、聖徒たち、クリスチャンたちに仕えて、行っている愛のわざを、神は忘れていませんよ、と励ますのです。
苦しみの中にあって私たちが持つべき信仰の姿勢、なすべきことは祈りと愛のわざだと言われます。苦しみの中に置かれるとき、祈り以外何もなし得ないことがあります。しかし、祈りは絶大な力を発揮するのです! そしてもう一つは、互いの愛のわざです。
へブル書の記者も、私たちが祈りによって、苦難、困難を乗り越えられるんだ! そして、私たちが決して堕落する者ではなくて、最後まで、その信仰の馳せ場を走り抜き、成熟を目指して進み続ける方法がそこにあるのだと教えるのです。
11、12節
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
「なまけずに」とありました。 怠けているわけではないが、「何となくだるい、おっくうだ」と感じることはないでしょうか。私たちの中にこのけだるさ、おっくうさがはびこっていないでしょうか。罪の性質は、神の言葉に、祈りに、奉仕に、愛のわざに、けだるさを覚えさせる、おっくうさを感じさせるものなのです。
ある先生のモットーは「面倒だからしよう」おっくうだから、けだるいからしよう、ということだそうです。手紙を書かなければならない、でも面倒だな、だからしよう。あの人に電話をしなければ、訪問しなければ、誰かのために何かをしなければ。「でも面倒だな、だからしよう!」 私自身、見習わなければならないと思わされました。
テトス2:14
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
キリストはなぜ、十字架であなたと私のために死んでくださったのでしょう?
聖書が語っているのは、①「すべての不法から、罪から救うため」 それだけでいいのか、天国に行ければそれでいのか。それでおしまい?
②「罪から」 どこに向かうために救われたのか 不法から贖い出し、良いわざに熱心な神の民とするため ご自分のためにきよめるために、キリストは死んでくださったのです。
私たちは何に熱心なのか、考えていただきたいのです。あなたの熱心は何ですか。あなたの熱い心は何に注がれていますか?
神を愛することに、隣人を愛することに熱心であってほしい!
そして、良いわざに熱心な者であってほしい!
と願うのです。それが、イエスさまが十字架にかかった目的だ、とありますから。
ぜひ、良いわざに熱心な者にさせて頂きましょう!
神の熱心が私たちを救ってくださったのですから。