2024.9.15 ルカの福音書6章39-45節
(1)盲人が盲人の手引きはできない
今日の箇所は、イエスさまのたとえ話がいくつか記されているところです。まず、39節を見てみましょう。
イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」
目の見えない人が、目の見えない人を手引きする、普通に考えたらそれは無理ですよね。当たり前のことだと思います。 しかし、当たり前のことをあえて語られる、そこに意味があるのです!
では反対に、「目が見える」とはどういうことなのか、を問いかけているわけです。イエスさまは、何を言いたいのかを、聴衆に考えさせるために、あえて当たり前のことを言われたのでしょう。
「目が見える人」それは自分が見える、本当に自分自身が分かる人、自分自身を知っている人だ、
そういう人が、他の人を導くことのできるのだ、と言われているのだと思うのです。
そうしてみると、盲人の手引きをする盲人、これは自分自身がどういう者なのか、わからない人のこと! 盲人を手引きすることのできる人、他の人を導くことのできる人は、まず自分自身が、誰よりも深刻な、目の見えない者だということが、本当にわかった人でなければならない、と言っているのでしょう。 自分を見つめたとき、人に知られたら恥ずかしい面や、汚れた思い、偽り、憎しみ、嫉妬などがあり、正しくも、聖くも、公平でもない者であることを思わされるでしょう。そこに真摯に向き合う時、自分は本当に罪人だ、ということがわかって来て、とても人を導くどころか自分自身どうにもならない者と気づかされると思うのです。
そして、自分がそういう者だとわかった者は、こんな自分を明るい方へ、まことの光の中に導いてくださる方を求め、そして、そういう方が自分に手を差し伸べていることを発見するのです。
それが、私たちのために十字架に架かり、死んで葬られ、よみがえってくださった救い主イエス・キリストなのです。 このキリストが、私たちの歩みを手引きしてくださる方、まことの導き手であることを発見するのです。
(2)梁とちり
次に41-42節を見てみましょう。
あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟、あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。
このたとえも「盲人を手引きする盲人」と同じで、自分の欠点や人に嫌な思いをさせるものが自分の内側にあることに気がつかずに、人の小さな欠点を指摘する者、まさに自分自身をわかっていない者のことを言っているのです。
批判精神旺盛な人、いますよね。自分のことは棚に上げて、人に対しては言いたいことを言う。ともすると、クリスチャンであっても、批判とまではいかなくても、自分の聖書知識を自慢するかのような話をしたり、教えてあげる、という感じで語る人もいるのではないでしょうか。
聖書は、読み進めていく中で、自分自身がどんな者であるかが、段々と分かって来るものなのです。聖書は確かに神の言葉であり、自分に語られている、ということがわかって来るのです。どんなに立派なこと、正しいことを言っても、このことを受け止められなければ、信仰の歩みはいつまでを同じ所をぐるぐる回っているだけで、一向に成長することはできないのです。
ですから、人のことばかり気になる、人ばかり悪く思える、人の悪いところばかり目につく、という時は、必ず自分の目に大きな梁があるということに、心を向けなければならなのです。
キリストの恵みの中にあるなら、光の中に置かれているなら、自分が本当に罪人であり、ただ神のあわれみで生きている者だということが、はっきりとわかるなら、人の欠点は目につかなくなり、むしろ人の良い所が目につくのです。そして、自分の悪い所がよくわかってくるのです。
イエス・キリストの深いあわれみと愛にふれた時、私のために現してくださったキリストのあの十字架の御業にふれた時、もう私は本当に、何の言い訳もできない、私こそ悪い奴ですと、言うしかないのです。
(3)御霊の与える剣である神のことばを
悪いと言えば、悪魔ほど悪い奴はいません! 多くの人はみな悪魔の、実に巧みな方法で操られて、そして、その事さえ知らずに、なんと悪魔と同じように上手に、巧妙に悪いことをしているのです。 裏金問題がその典型でしょう! 贈収賄も後を絶ちません! だからキリストが来てくださったのです! このどうしようもない、私たち罪人のために、悪魔の言いなりになってしまう体質を持っている私たちを、新しく生まれ変わらせてくださるために、イエスさまは来てくださったのです!
けれども、新しく生まれ変わっても、この世にある限り、悪魔は攻撃してきます。人間同士を、クリスチャン同士を裁き合わせ、憎み合わせ、奪い合わせ、敵対させるのです。 だから、聖書は、エペソ6:10-12でこう語るのです。
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
私たちの敵は目に見える血肉、人間ではない! 暗闇の世界の支配者で、人間を不幸にする悪霊、悪魔こそが敵なのだ、と示しているのです。
しかし残念ながら、私たちは悪魔に勝つことはできません。 だから、「神のすべての武具を身に着けなさい」とあり、その中で攻撃できる唯一の武器は、「御霊の与える剣である神のことば」だと言うのです!
みなさん!悪魔に打ち勝つために、「御霊の与える剣である神のことば」を常に携えていますか? いつ敵がやって来ても、戦える、神の武具、み言葉の剣を、よく手入れして、磨いて、すぐに使えるように、聖書のことばを蓄え、日々養われていく必要があるのです。 マタイ4:4に
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」
との言葉を、もう一度、心に刻んでおきたいものです。
最後にみなさんにお尋ねします。 聖書通読をしてますか? デボーション(静思の時=静まって神のことばを思いめぐらす時)をもっていますか? これはもう、クリスチャンにとって、するか、しないかは死活問題と言っても過言ではない、大切なことなのです!
悪魔の巧妙な誘惑に陥らないように、磨きのかかった「御霊によるみ言葉の剣を」をいつも準備し、携えて歩んで行きましょう。