求めの切なるにより
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 7月20日
- 読了時間: 7分
2025,7,20 ルカの福音書11章5-13節
信仰生活において大切なことは、神の言葉を知的に理解するだけではなく、その語られた神の言葉を、自分自身の実生活において適用することです。
ですから、イエスさまが、祈りについて教えられるときのたとえ話でも、だれかほかの人のことではなく、弟子たちが自分に当てはめて聞くようにと言っておられます。5-6節
イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを3つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
と話し出しておられます。「ある所に一人の人がいて、その人の所に真夜中に友人が訪ねてきて…」とは言っていません。 なぜ、イエスさまはこういう言い方をしておられるのでしょう? それは、祈りというのは、他人事ではなく、自分自身の問題であることを、弟子たちに自覚させたいと思われたからです。
ところで、このたとえ話は、当時の時代背景や、社会状況を知らないと、正しい理解はできないと思います。 イスラエルは、日中は暑いので、当時は日が傾いた夕方から夜にかけて旅をするのが普通でした。ですから、お客が夜中に訪ねてくるということは、よくあることだったのです。
普通なら、余分なパンがあるのですが、あいにくこの人の家には、余分なパンがなくて、訪ねてきた旅人をもてなすことができませんでした。 「さあ、困った。どうしよう」 自分ではどうすることもできないので、誰かに頼らざるを得ません。 「そうだ、あの友だちにお願いするしかない!」 と思って、友だちの所に行って、パンを貸してほしいと頼むのです。7節
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
ここも、当時の住宅事情を知らないと、正しく理解できないと思います。当時の一般庶民の住宅事情はかなり厳しく、一家は一つの部屋の中で暮らしていました。ですから、寝るときには、家族の者たちが一室にぎっしり寝ていました。 真夜中であれば、明かりもつけることができず、ぎっしり寝ている家族をまたいでパンを探し、それをもって家から出てくるということは大変なことだったのです。ですから、友だちが断ったとしても、別に彼が、不親切だったり、冷たい人間であったとは言えないし、むしろ、それが当たり前だったのです。
そこで、イエスさまはこのたとえの結論として、次のように言われました。8節
「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」
ここで大事なことばは、「あくまで頼み続けるなら」というところです。この言葉を別の翻訳をしている聖書ですと「あつかましいほどのしつこさ」「切実に求め続けるなら=恥も外聞もなく求め続ける」「求めの切なるにより」などとあります。
私たちにとって、「本当に、この祈りを聞いてもらわなければ困るんです」「この願いを成就していただかねば大変なことになるんです」というような、必死な思いで祈る祈りは、なかなか聞かれない、答えられない、という状態が続いても、あきらめないで、それこそ「恥も外聞もなく」「あつかましいほどのしつこさ」をもって、祈り、求め続けるのではないでしょうか。
そして、このたとえ話に続いてイエスさまは、次のように言われました。9-10節
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
ここで言われている「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」は、もともとの意味は、「求め続けなさい、捜し続けなさい。たたき続けなさい」なのです。祈りにおいて、求めても得られない、捜しても見つからない、たたいても開かれないことが、現実としてあるでしょう。 でも、あきらめないで、熱心に祈り続けるようにとイエスさまは語られ、「そうすれば」受け、見つけ出し、開かれる、と約束の言葉を語られているのです。
祈りで大切なのは、その祈りが答えられることを確信して、祈り続ける熱心さと、忍耐強さであると、主は言っておられるのです。では、そういうふうに祈れば、それだけで神さまが祈りに応えて下さるのでしょうか。 そうではないと思います。
なぜ、神さまは、こんな(悪い者=罪人の)私たちの祈りに応えて下さるのでしょうか?
それは、神さまは私たちの「お父様」だからなのです! 父親は、子どもたちのためには、良いものを与えたいと、常に思っているでしょう! 11-13節
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょうか。してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもたちには良い物を与えることを知っているのです。
神さまが私たちに与えようとしておられるのに、私たちがちょっと祈って、答えられそうもないと、祈りをやめてしまうというのでは、その祈りの答えを頂くことができないのは、当たり前のことではないでしょうか。
親は、子どものためなら、何でもしてあげたい、良いものを与えたいと思っているんです! 時には、求めているものが、子どもにとってふさわしくなければ、もっとふさわしい、良いものを与えるでしょう。 だから、イエスさまはこう続けるのです。13節後半
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
なぜ、求め続ける人には、聖霊をくださる、と言われるのでしょう? ヨハネの手紙第一5章14節には
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
神の御心にかなった願い、祈りをするなら、神は聞いてくださる、とあります。ですから、神の御心を知るために、聖霊をくださる、と言っておられるのではないでしょうか。 聖霊の助けによって、神の御心にかなった祈りをささげることができるからです。
さらに、同じことを教えているマタイ福音書の方では、「聖霊」と言わずに「良いもの」と言っています。 マタイの福音書7章11節
とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
イエスさまは、弟子たち、また私たちクリスチャンに対して、良いものとは聖霊のことだ、と言っているのです。 聖霊によらなければ、神を信じることも、神の言葉に従うことも、さらに宣教の働きもできません。神の愛を周りの人に注ぐこともできません。 イエスさまは聖霊について、こんなふうに語っている所があります。 ヨハネの福音書7章37-39
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。私たちは、主イエスを信じる者です。
しかし、どうでしょうか? 私たちの心の奥底から、聖霊があふれ出る川のように、湧き出て、流れ出ているでしょうか?
もしそうでなければ、この湧き出て、あふれ出て、流れ出て、人々を潤す聖霊を求めようではありませんか! イエスさまは、天のお父様が、求め続けている人々に、聖霊を下さらないことはない! と断言しておられるのですから。
この聖霊こそ、私たちに神の愛を注いでくださり、喜んで主に仕え、主にささげ、神さまのために力強い働きをさせて下さる、原動力なるお方なのです!
「求めの切なるにより」 主は私たちに聖霊を豊かに与えてくださるのです!
「あつかましいほどのしつこさ」をもって求めていきましょう!