求めの切なるがゆえに
- 木村勉(ジョイチャペル牧師)
- 2024年11月24日
- 読了時間: 6分
更新日:2024年11月25日
2024.11.24 ルカの福音書8章40-48
(1)地位、立場を超えて
今日はまず、聖書箇所を見ていきたい。ルカ8章40-41節
さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。
彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。
喜んでイエスを迎えた群衆を、かき分けるようにして、ひとりの人がイエスの前に来て、そして、突然、がばっとイエスの足もとにひれ伏したのです。この人がどういう人なのかが、端的に紹介されています。「ヤイロという名の会堂管理者」とあります。
この当時のユダヤ人社会で「会堂管理者」というのは、みんなから尊敬される立場の人でした。彼らの法律は律法であり、会堂は、その律法をつかさどるところ、律法を学ぶ所、律法によって生活全般一切が、この会堂においてなされるのです。
そういう訳で、会堂はユダヤ人にとって大切な所であり、そこの会堂管理者は、会堂の一切を取り仕切る最高責任者なので、ユダヤ人の中では、非常に高い地位にあり、尊敬される存在であったのです。
そんな会堂管理者のヤイロが、いきなり、イエスの前に出て来て、その足元にひれ伏しました。土下座しました! 社会的な地位から見れば、イエスは教師としての教育を受けたのでもなければ、パリサイ人でも律法学者でもない、また、祭司の出でもない。ついこの間までは、貧しいガリラヤのナザレの大工だった。その元大工だったイエスの前に、いきなり来て、身を投げ出し、その足元に奴隷のごとく、地面に頭をこすりつけるようにして、ひれ伏した! しかも、これが一対一の場ならまだしも、そこには大勢の人たちが取り巻いている。その中には沢山の知り合いもいるのです。 会堂はユダヤ人が必ず安息日に集まる所ですから、ヤイロの方が知らなくても、自分はみんなに知られている。その知っている人にとり囲まれている中で、このような態度をとる、これは普通考えられないこと! よくよくのことなのです。
(2)切なる求め
「自分の家に来ていただきたいと願った」彼にそのような態度をとらせた原因は何か? 彼には、どうしても聞いて頂きたい、何が何でも聞いて頂きたい、という切なる願いがあったからです。 その願いとイエスと自分、この関係だけがそこにあったのです。ヤイロの目には、その他のことは一切見えなかった。ただ素晴らしい救いの力をお持ちになっている方がここに立っておられる。そして、自分には今、何が何でも聞いて頂きたい願いごとがある。 ここに本当の願いを持った、心の底からの願いを持った者の姿があるのです。
イエスは山上の説教の中で、有名な言葉を語りました。 マタイ7:7
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
これは、断定的に語っておられるのです。「かもしれない」ではない! 「そうすれば」必ず成る! との聖書の、イエスの言葉なのです。
しかし、いくら求めても、門をたたいても、もう何年も叩き続けているけれども、ちっとも門が開かれたような気がしない。求め続けているけど、全然受け取れない、と思っている人がいるかも知れません。 しかし、その求めは、どういう求めなのか? 求め方に問題はないのか? 本当に求めているのか、この願いを聞いてくださらなかったら、生きる希望が持てなくなってしまうほどの求めなのか。求めているつもりでも、(ダメならしかたがない)という思いを抱きながら求めていないか?
ヤイロは、自分の姿が周りの人にどう見られるか、会堂管理者として、こんな姿を多くの人の目にさらしてもいいのだろうか、今後の仕事、人との関わり方に影響が出るのではないか、などというそんなことは一切頭の中にはなかった! そんなことはどうでもいい、ただこの願いを叶えて欲しい、それだけだった!
まさに、赤ちゃんが、母親に対して、おっぱいが欲しいと泣いて訴える如くに、それ以外のことなど、考えていない! ただくれるまで求め続ける! 今忙しそうだから、あとにするか、なんてことを赤ちゃんは考えもしないのです。
ヤイロは何を願ったのでしょう? 42節
彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。
このひとり娘を何としても助けて頂きたい、この一点だった。 12歳になった一人娘、もう可愛くて可愛くて、この子のためなら、自分の命を与えてもいい、という思いにもなっていたことでしょう。娘を救うことは、ヤイロ自身が救われることなのです! 自分のために願っていると言ってもいいのではないでしょうか。 そして、それこそがすべての人が願う「救ってください!」という心からの願いなのではないでしょうか。
(3)信仰から出た言葉、行動
43節に入ると、状況ががらりと変わります。42-43節
ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、
イエスの後ろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
今日の箇所の出来事も、マタイ、マルコに記されています。マルコが詳しいので、そちらを見てみましょう マルコ5:25-26
ところで、十二年の間長血をわずらている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
ひどいですね。失望を通り越して、絶望しかなくなっていたことでしょう。しかし、そんな時 27-28節
彼女は、イエスのことを耳にして、群集の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
マタイも同じように「きっと直る」と考えていた、とあります。詳訳聖書では、マタイは「心の中で言い続けていた」、マルコは「いつも言っていた」とあります。ここに、この女性のイエスに対する信仰を見ることができるます。注目すべきは、詳訳聖書が記しているように、このお方の所に行ったら「直る」と「言い続けていた」「いつも言っていた」ということです。これは、信仰の告白です! すると、29節
すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
「この娘の信仰を見よ!」とイエスさまが私たちに語っているようです。
聖書の言葉を用いて、信仰告白、信仰の宣言をすることは、クリスチャンとして神の不思議な力を体験できる大切なことなのです。
信仰は気休めではありません。神さまは生きていて、今も私たちのために、働いていてくださるのです。イエスさまは私たちのために、とりなし続けていてくださるのです。
この女性は信仰を持ってイエスさまの着物にさわったところ、一瞬にしていやされました。黙って帰ろうとしたところ、そうはさせてもらえませんでした。そして、イエスさまに「私をさわったのはだれか」と言われ、隠しきれないと悟って、進み出て 47節
イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
イエスさまは私たちにも、先週と同じように、神がどんなに大きなことをしてくださったかを、語るのですよ、と私たち一人ひとりに言われているのではないでしょうか。
最後にイエスさまはこの女性に 48節
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」
と言われました。
私たちも、神さまから与えられた信仰を持って、求める時には赤子のように、立場とか、周りの目とかを気にせずに、まさに一途に、必死に求め、また、神さまがなしてくださった素晴らしいことを、感謝と喜びをもって、伝えていく者とさせて頂きましょう。