top of page

永遠のいのちを持っている

更新日:2024年6月10日

2024.6.9  ヨハネの手紙第一5章6~13節

 

 私は40年間、公立中学校の社会科教師として教壇に立ってきました。クリスチャン教師として、何が出来るだろうかと考えてきました。公立学校ですから、もちろん宗教教育はできません。けれども、授業内容の中で扱うのであれば問題ではないと考えました。 歴史の授業の1時間目は、「人類の誕生」です。教科書は「進化論」を元にして書かれています。私はそこで終わらせず、アメリカの多くの州では、「創造論」という考え方もあると教えている、ということを紹介して旧約聖書の創世記の話をします。また「世界の宗教」という項目の授業では、キリスト教の説明に少々時間をかけたりもして来ました。「土、日は教会の牧師をしている」と話すと、生徒はとても興味を示します。そういう中で、これまで多くの生徒が教会に足を運び、聖書の話に耳を傾けてくれたことは、とても感謝な事でした。

 私たちは、いろいろな形で聖書や教会を紹介する方法があると思います。神さまが私たちをそれぞれの所に置いておられ、その置かれた所で神さまを見上げ、求め、願っていく時に、それぞれの方に相応しい働きをさせてくださるのだと思います。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)これが、私たちのなすべき第一のことであることを忘れてはならないと思います。

 

(1)イエスが神の子キリストであるとの証

 Ⅰヨハネ5章6節に「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血によって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」とあります。「水と血とによって来られた」とは、どういうことでしょう?大きく2つの解釈があります。第一は、「神の子イエスは、確かに人間として来られた」その証拠として、十字架上で兵士から、わき腹を槍で突き刺された時に、血と水が出て来たではないか。という解釈。もう一つは、イエスの公生涯はバプテスマのヨハネから水で洗礼を受けるところから始まり、十字架で血を流し、死をもって救いのわざを完成した、という解釈。こちらの方が支持されています。 続いて7、8節「 あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」何を証するのでしょう? イエスが神の子であることを証明するものを指しているのです。 まず①御霊について。イエスが洗礼を受けた時に「御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった」(マルコ1:10)とあります。また、②水について。ご自分が洗礼を受ける時に、バプテスマのヨハネは「とんでもない、神の子に私が洗礼を授けるなんて」との思いから固辞しましたが、イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ3:15)と言って、神であるのに人としての働きを始めたのです。そして③血について。イエスは十字架で血を流され、すべての人の救いの道を開かれました。十字架上で息を引き取られた時に起こった事、それを見ていた者の証言がマルコ15:38-39にあります。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言った。」

 

(2)永遠のいのちが与えられている

 まことの神以外に与えることのできない「永遠のいのち」。ヨハネがこの手紙を書いた目的の重要な一つとして5:13に記しています。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」 私たちは、永遠の命が与えられていることの、喜び、感謝、祝福をどれだけわかっているでしょうか? 100%理解することは無理でしょうが、与えられている恵みがどれほどすばらしいものであり、計り知れない祝福がすでに与えられている、と心から感謝をもって喜んでいるでしょうか? ヨハネの手紙第一3章1節「私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」とあります。 私たちが、地上でどんなに辛いことがあっても、目を高く上げ、天を見上げるときに、神様はその辛さ、困難さ、行き詰り状態、それらを乗り越える力、知恵、思いを与えてくださるのです!

 どうすれば困難を乗り越える力や知恵が与えられるのでしょう? みなさん、私たちが与えられている信仰は聖書信仰です!聖書に目を向けるのです! 聖書を通して神の声を聴くのです。イザヤ書55章8-9節「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」神様は私たちが考えているよりも、思っているよりも、はるかに素晴らしい幸いな道を用意してくださっているのです!

 そして、この地上だけでなく、永遠の幸い、永遠の祝福を与えてくださると、神様が約束しておられるのです! 

 最後にコーリー・テン・ブームという人が書いた文章を紹介して終わります。


  私たちはみな天国に行ける

  健康がなくても  

  財産がなくても  

  名声がなくても

  学問がなくても  

  教養がなくても  

  美しさがなくても  

  友人がなくても  

  他の何がなくても  

 

  けれども イエス様なしには

  天国に行くことはできない

 
 

最新記事

すべて表示
愚か者になるなかれ

2025,11,2 ルカの福音書12章13-21節    今日の聖書箇所の直前で、イエスさまは弟子たちに対して、権力者などの所に連れていかれたときに、何を、どう言おうかと心配するな、言うべきことは、その時に、聖霊が教えてくださるから。と語っておられました。 その時、群衆もその話を聞いていたと思います。ひとりの人が前に出てきて、唐突に自分の抱えている問題の解決をイエスさまに願い出るのです。  クリス

 
 
神を認めて生きる

2025,10,26 ルカの福音書12章8-12節    今日もルカの福音書12章の短い箇所から、神の御言葉の深みに漕ぎ出したいと思います。 まず8-9節を見ましょう。   そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。   イエスさまが

 
 
神との平和宣言

2025.10.19 ローマ人への手紙5章1~5節    ローマ人への手紙は「信仰義認」が中心的なテーマです。   「信仰によって義と認められる。律法の行いによるのではない。」というプロテスタント教会の根幹となる考え方です。 救いは、神の一方的な恵み、愛の業、何かしたから、救いに与かった、ということでは決してない!とパウロは繰り返し語るのです。  「異邦人もユダヤ人も、すべての者はイエス・キリスト

 
 

ジョイチャペル

©2023 by JOYCHAPEL. created with Wix.com.

bottom of page