死んでいたのが生き返り
更新日:6 時間前
2026,9.27 ルカの福音書15章11-24節
ルカの福音書15章は、イエスさまが語られた3つのたとえ話からなっています。これまで、最初の「迷子の羊」を、先週は2番目の「なくした銀貨」をみてきました。
今日は3番目の、イエスさまが語られたたとえ話の中で、最もよく知られている「放蕩息子のたとえ」を見ていきたいと思います。
ここでは、ひとりの罪人が悔い改めるとは、どういうことなのか。そして、その悔改めにどんなことが伴うのかということを中心に見ていきたいと思います。 11-12節から
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
このたとえには、普通あり得ないことが語られています。それは、弟が、父の生前に財産の分け前、遺産の相続を要求しているということです。この父は寛大なので、身代をふたりに分けてやります。 通常、長男の受け継ぐ財産は弟の二倍を受け取ることになっているので、兄が2/3、弟が1/3を全財産のうちから受け取ることになるのです。 13節
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
父の家における窮屈な生活に嫌気がさし、外に出て行って、やりたい放題した弟です。ここに罪人の姿が現われています。罪とは、神に背を向けることです。神に反抗して、そして、遠い国、つまり神から遠く離れていってしまうことなのです! 14-16節
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
本当に遠いところまで行ったようです。「豚の世話」とありますが、これはユダヤ人とっては、これ以上ないほどの惨めな状態です。律法では豚は汚れた動物とされていますから、この、彼が向かった「遠い国」というのは異邦人の世界だったということがわかります。
そして、その豚の食べている餌のいなご豆さえも食べたいと思うほどの空腹を味わっていたのです。それはもう、みじめで、情けなくて、どん底と言っていいほどの状態でした。 17節
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。」
この「しかし、我に返ったとき」が今日の大切なテーマの一つです。原語では「自分自身に帰った」という意味であり、リビングバイブルでは「やっと目が覚めました」と訳しています。 彼は、自分がみじめであること、貧しいこと、哀れであることに気づきました。
ですから、悔い改めの第一歩は、自分の姿に気づくことです。 17節
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」
彼は、我に返ったあと、父を思い起こしました。父の豊かさについて思い起こしました。それに照らし合わせて、自分の姿を比較させています。もちろん、ここでの父は、父なる神ご自身を表しています。 ですから、悔い改めの次の一歩は、神に思いを向けることです。神のことを考え、神の豊かさを考えることです。
悔い改めというと、単に行ないを改めることのように考えがちです。しかし、そうではありません。 今から弟息子は、父の家に向かいますが、汚れた、豚のにおいがプンプンにおう姿で行きます。身なりを整えて、豚の匂いがなくなるまで体を洗って、それから・・・ではないのです。神のことを考えて、すぐに、ありのままの自分で行くことが必要なのです。18節
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
彼は、自分の罪を父に対して言い表します。ですから、悔い改めの次の段階は、罪を告白することです。祈りの中で、私はあなたに対して罪を犯しました、と言葉に出して告げる必要があります。19節
「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
ここは、とても大事です。彼は、自分が父の祝福を受ける資格がないことを認めています。 自分の人生は雇い人でよい、それで十分なのだ、と考えています。
ここまでが弟息子の悔い改めです。次から父親が登場します。20-21節
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
まだ家から遠かったのに父が彼を見つけました。そして父のほうから近寄ってきました。 ということは、父はずっと息子を待っていたということなのです。息子は豚のにおいがプンプンしているのです。でも、父かまわず、そんな息子をかわいそうに思って、首を抱きかかえ、何度も何度も口づけしています。汚れたこの私たちを、ありのままで、どんなに汚れていてもありのままで、私たちの父なる神は受け入れてくださるのです。22-23節
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
父親が受け入れるということは、罪の赦しであり、神の憐れみでした。しかし、ここでは神の恵みが示されています。
父は明確に、息子を息子として受け入れています。 一番良い着物、手の指輪、それは息子としての資格を表しています。そして足に靴、当時の奴隷は裸足でした。
まさにこれが、息子に与えられた、ヨハネの福音書1:12で言われていることです!
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
何も資格のない者、むしろ罪の報いを受けて当然の者が、そのまま神の子どもとしての、最上の祝福を受けることができる! そんなことは、私たちには、常識的には、決して理解できるものではありません。しかし、神さまはこのように、理解を超えたことをしてくださるお方なのです! なぜですか? 父の思いは23-24節に表されています。
『食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
常識的に考えれば、この父親の態度はおかしいかもしれません。父の財産の1/3を浪費して帰ってきたわけですから、叱って、当分の間は雇い人か奴隷のようにして扱い、一定期間今までの償いをさせた上で、赦すのではないかと思います。
しかし、この父親は無条件で赦しています。これが天の父である神の赦しの愛なのです。ひとりの罪人が悔い改めて帰って来る時、どれほどの喜びを、天の父である神さまが持たれるのかということを示しています。
私たちのことをこんなに喜んでくださり、私たちが思うよりも、願うよりも、びっくりするくらいの、大きな恵みと祝福を与えてくださる愛と赦しの神さま! このお方を、私たちの方こそ喜びにあふれて、感謝して歩んで行こうではありませんか。
